令和5年12月11日
              第三回三大学卒業生謡会 報告
                             世話人 向濱 幸雄
 
 2019年11月に第一回三大学卒業生謡会が開催、2022年12月4日の第二回再開に続き、
本年12月3日に第三回が開催された。

 

 今回の開催場所は、幹事の一橋大の設定で竹橋の「如水会館」3階のけやきの間で、
如水観世会(一橋大)6名、香謠会(大阪公大=旧市大)7名、東京凌霜謡会(神戸大)3名
の総勢16名が参加して、合同素謡、各会による連吟で日ごろの鍛錬の成果を披露した。

 当日の番組は別添のとおりで、わが東京凌霜謡会は合同素謡『巴』のお役の担当と、
連吟『三井寺』を謡った。会員のスケジュール上今回は3名(敬称略:谷村・山本・向濱)
だけの参加となった。

 

 今回の謡会はマスク等の着用もなく通常のスタイルで着席での謡会で行われ、12時半
から15時の謡会終了後は恒例の懇親会が開かれた。懇親会は卒業年次の近さで、3つの
テーブルに分かれて、デリバリーの食事を楽しみながら、会話に花を咲かせた。その後、
参加の各人からの謡曲や健康管理等のスピーチに他のテーブルからヤジが飛ぶなどして、

大いに盛り上がった。

懇親会は次回の再会を約して、予定通り午後5時に盛会のうちに終了した。
 

 なお、次回は2024年12月1日(第1日日曜日)とし、幹事校は神戸大となる。
                                                                                                              以上

       

   三大学謡会参加者全員の集合写真

  

 2023.12.03「第3回三大学卒業生謡会」が

 一橋大学の如水会館で開催されました。

 

 

 合同素謡(東京凌霜謡会お役担当)『巴』


    第12回風韻気韻会が東京六甲クラブで開催されました

      (風韻気韻会は1971年と72年卒の交流会です。アルバムもご覧下さい)


        前田紀一郎さんを偲ぶ謡い会(報告)

                             草壁美代子

時:2023 年8 月22 日(火) 13時~16時

所:鶴林寺(加古川市)

演目と参加者   計19名

  ・「卒都婆小町 キリ」全員

  ・「淡路」 鷺諷会(神大卒西播磨地区他) 6名

  ・「頼政」 神大卒 加古川地区      3名

  ・「江口」 いなみの学園徒然謡倶楽部   9名

  ・久下昌男さん

 

  2021年110月26 日にご逝去された前田紀一郎さんを偲ぶ会を

コロナ禍の規制も解けた今年、実施の運びとなった。

演目は徒然謡倶楽部で訪れた地に関するもので有り、この謡会に

先だっての食事会では、懐かしいエピソードの披露が多くあった。

 徒然謡倶楽部とは、姫路、加古川周辺の謡・能を愛する者が楽しい

謡跡巡りをし、その他に関する謡を謡ったり、美味しいものに舌鼓をうったり

謡や能を深く理解するとともに、親睦を深めることを目的とした会である。

 

佐渡や東北・宇治・天河・西近江や淡路・瀬戸内はじめ明石の柿本神社等を訪れた。

 

前田さんは、久下さんと共に計画立案の上、事前にその地を訪れて

修正を加え、参加者がそれはそれは満足して楽しめる会にして下さっていた。

 

本日の会が滞りなく実施されたのは、神大謡曲部卒の若い力に負うところが多く

感謝である。

                                  以上

 

世話人:飯田博江、武内安雄


                               令和4年12月4日

              第二回三大学卒業生謡会 報告

                            今回世話人 山本秀人

 

 2019年11月に第一回三大学謡会が開催され、毎年開催の予定であったが、新型コロナ

感染症の蔓延のため延期され、ようやく2022年12月4日に第二回を開催した。

 

 今回も開催場所は神戸大学六甲クラブ様にお世話になり、大阪市大9名、一橋大5名、

神戸大3名の総勢17名が参加し(懇親会は16名)、合同素謡、各校による連吟で日ごろの

鍛錬の成果を披露した。

 

 今回は新型コロナ感染対策として、地謡はマスク、フェイスシールドの着用とした。

懇親会は着席による形としたため、当初は3校の交流がうまくできるか心配したが、

年次の近さで3つのグループに分け、各グループに各校参加者が分散したため、各々の

グループで会話もはずみ、大いに盛り上がった。

 

 懇親会は、最高齢参加者の山口氏の乾杯発声で始まり、各大学幹事から活動状況の報告

のあと参加者の自己紹介を行った。その中で一橋大の佐藤氏から、三商大謡会は昭和32年

に始まったなど、三商大の歴史について披露があった。

 

 会は予定通り午後5時に全員での高砂千秋楽を謡い盛会のうちに終了した。

 

 なお、次回は2023年12月3日(日)とし、幹事校は一橋大となる。

 

以上 




             2022.04.11

伏見 和政さん「葵上」を拝見して                  

               高島千明 1971年卒              

 興味津々でシテの出を待ちました。幕から橋がかり一の松まで、裾の自由が効きにくい中、足を運ぶのは難しいのだな・・・と。

シテの一声が会場に良く通る声で始まり、謡は力みが無く、しかし力強く調子良く、又、所作の要所、要所の姿の良いのに感じ入りながら、

留め拍子を聞きました。

 

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             飯田博恵 1974年卒

コロナ対策で、座席は一人おきに座る事になってましたが、橋懸かりの近く以外はほぼ満席でした。

神大のOBも大勢来られていました。

舞台は囃子かたも一流の方々でした。久田さんは伏見氏がお稽古に行ってるからかもしれませんが。

伏見氏は最初緊張されてましたが、後半の横川子聖との闘いは迫力ある後シテでした。

苦闘する表現もかんじがとてもよく出ていたと思いました。

 

 


 伏見和政氏(1979年卒)2022年4月10日(日)湊川神社神能殿にて「葵上」演能の案内状と番組表をそのまま転載致しました。



                                                                            2021.11.13                    

                  能楽形式によるバレー「羽衣」公演について

                                                                                   山本秀人(1972年卒)

 

 流山市文化祭で 能楽形式によるバレー「羽衣」を実現しました。

公演参加者   

・流山市洋舞部(クラッシックバレー)

・流山市謡曲連盟

・月扇会(松戸市の、囃子と舞の同好会)

・鶴亀座(能楽普及団体 千葉県・東京都の小中学校向けに体験教室実施)

 

経緯

・流山市文化祭のオープニングセレモニーで、独自企画のクラッシックバレーと能楽のコラ

 ボ演劇の実施を計画。(流山市文化団体連合会会長=洋舞部部長)

・提案を受けた流山市謡曲連盟会長より山本に相談あり、第1回の曲目を「羽衣」とし、シナ

 リオ案作成。

・シナリオ案を下に、月扇会(笛・小鼓・太鼓)、鶴亀座(大鼓)メンバーに公演参加を要請。

・2011年3月 メンバー集合し練習開始。

 

演出

 シナリオ作成…山本

 囃子…主に笛担当の三吉氏と相談し、シーン毎の囃子を決定

 舞(バレー)…囃子・謡・舞台展開に合わせ、「天人役」のプリマが創作。

        キリの舞は仕舞の動きをアレンジする事とし、仕舞を指導。

        尚、使用扇は、「風韻会」50周年記念の富士の扇です。

 

公演

 第1回 2021年10月23日 流山市文化祭オープニングセレモニー

     舞台記録 https://youtu.be/mMGej_R52mI

 

 第2回 2021年11月6日  流山謡曲連盟「謡と仕舞の会」

     舞台記録 https://youtu.be/EN3Jy_Fanp0

 

※上記URLで、当日の舞台を見ることができます。

※当日のプログラムです「流山市クラシックバレエと和のコラボプログラム」

ダウンロード
流山市クラシックバレエと和のコラボプログラム.pdf
PDFファイル 1.0 MB

     白鷺教育会120周年記念文化展

 

 丹羽啓裕氏(1967年卒)作の能面が展示されました

(2021年7月21~25日 イーグレ姫路 市民ギャラリー)


                                   2020.04.18

            「蝉丸の墓」

                                   段野 治雄

 

 

 新型コロナウイルスの情報に振り回されている毎日ですが、自宅で謡の練習をしながら

その世界に浸ることで外出しないように努めております。そんな中、つまらない情報ですが

お笑い種に・・・。

 

  昨年12月、福井県鯖江から西へ越前町剣神社(注)に向かうドライブ中に道路端に

「蝉丸の墓」との小さな案内板がありましたので急遽立ち寄りました。場所は福井県

丹生郡越前町野で、「戦国武将織田一族発祥の地」とされる小さな剣神社のそばでした。

 

  ウィキペデイアの「蝉丸」にも「蝉丸に関する史跡」の一つとして記載されています。

真偽のほどは別として、謡をしている身にはこんな思いがけない史跡?に出会えることで、

旅行が一層楽しいものになりました。

 

注:越前町織田(越前陶芸村の北3kmくらい)にも「越前国二宮 剣神社」があり

 

こちらも「織田一族発祥の地」とあって、大きな神社でした。

 

 

 

 


新作能面展(リーガロイヤルホテルのギャラリー開催)

 

安藤氏(1968年卒)の能面展に同期の川邊氏とリーガロイヤルホテルのギャラリーを訪問しました。

増田豊春先生のお弟子さん16名の一人一作品の展示です。

 実際の制作プロセスを安藤氏から木材、彫刻刀、真鍮の使用部、漆塗りなどご説明いただくと、それぞれの緻密な作業に感動します。

 能の見方も深まることと感じました。

素晴らしい作品展(8月6日~8月11日)でした。

 

能楽師が面を通して周囲がどのように見えるか体験できます。 (1971年卒 武内記)


       第9回風韻気韻会報告

 

46年卒と47年卒の謡会を10月31日(水)開催しました。

奈良の平城宮跡歴史公園を見物し、朱雀門前で記念写真(アルバムに)を撮りました。

昼食を学園前でとり、西部公民館で「百萬」「隅田川」「定家」「海士」の素謡でした。

12名(70歳3名、69歳6名、68歳3名)の力強い謡声が鳴り響いたことでしょう。

懇親会では言いたい放題が許されるありがたい心地よさを感じながら、名残惜しみつつ閉会です。

今回は、川辺さんの計らいで、前日一部の人が、興福寺中金堂、東大寺、春日大社を見物できました。

来年は熱海付近で10月末から11月初旬の予定で第10回開催予定です。

                                記:46年卒 武内安雄


          「巴」と「兼平」
                           山本秀人(昭和47年卒)
 能の「巴」「兼平」は共に「平家物語」の木曽義仲最期の場面を題材とした曲ですが、

曲趣、ストーリーが大きくことなります。
 まず、両曲の義仲最期の場面は、以下の通りです。
能「巴」
 戦いに敗れた義仲は、粟津の松原への敗走の途中、深田にはまり馬の身動きが取れません。

巴が駆けつけて見ると、義仲は重傷を負っています。乗り替えの馬に義仲を移し、粟津の

松原まで連れて行き、自害を勧めます。一緒に自害すると言う巴に義仲は、「お前は女だか

ら、身を隠す方法はあるだろう。遺品を故郷、木曽に届けてくれ。これは命令である、違反

すれば、主従の縁を切る。」と言われ巴は涙にくれます。
 義仲自害の時間を稼ぐため、巴は追手の中に攻め入り散々に蹴散らします。その後義仲と

別れたところに帰るとすでに義仲は自害しています。巴は武装を解き、義仲の遺品を胸に

抱き、涙ながら木曽へと落ち延びて行きます。

能「兼平」
 京よりわずか5騎で敗走してきた義仲は、瀬田の守りについていた兼平と合流し、3百

余騎となりますが、最後は、義仲・兼平2騎になってしまいます。かかる上は近くの粟津の

松原で自害しようと、松原へと向かいます。
ところが、追手が迫って来ます。兼平は、義仲自害の時間稼ぎをする為引き返そうとします

が、義仲は「(乳兄弟である)お前と一緒に死のうと思って、ここまで来たのだ」と言って、

共に追手に討ち入ろうとします。兼平に「木曽殿ともあろう方が人手にかかるのは、末代の

恥辱。ご自害を! 兼平も追いつきます。」と言われ義仲は松原へと一騎向かいます。
 義仲は、途中深田に踏み込み身動きが取れなくなり、この場で自刃しようとして、刀に手

を掛けます。最後に兼平の事が気にかかり後ろを振り返ります。振り返った瞬間顔に矢が当

たり、落馬しその場にうずくまります。(振り返らなければ、兜が矢を防ぎ負傷する事は

なかったのです。)
 その間も兼平は戦い続けています。考えていたのは、「義仲の自害の場へ駆けつけ、自分

も後を追う」事だけでした。そんな中、敵方より「義仲を討ち取った」との声を耳にし、

もはや何の望みもないと、敵中に攻め入り散々に蹴散らします。最後に刀を銜え馬上から

逆さまに落ち壮絶な自害を遂げます。

「平家物語」義仲の最期
平家物語での記述は次の通りです。
①義仲は敗走し、兼平と合流すべく瀬田へと向かう。
②5騎となり、瀬田の手前で義仲を探していた兼平軍300と合流。
③再び7騎にまで減少。この中には巴も含まれていた。
④義仲は巴に「お前は女だからどこへでも落ち延びよ。自分は討死する。木曽殿は最期の

戦に女を連れていたと言われるのはかっこよくない。」と言うが、巴は従わない。
⑤あまり度々言われるので、「好き敵がいたら最後の戦いをして義仲のお目にかけよう。」

と敵方をうかがっていると、武蔵の国で名の知られた御田八郎師重が30騎あまりで押し

寄せます。その中へ切り込み、御田八郎を討ち取り戦場を離脱。物具を脱ぎ捨て東国へと

落ちて行く。
⑥遂に、義仲・兼平の2騎となり、義仲は2人で討ち死にしようと言うが、兼平に自害を

勧められ、義仲は自害の場粟津の松原へ、兼平は時間稼ぎに敵陣へと別れる。
⑦兼平は、囲まれ矢を射かけられるが、良い鎧なので裏までつき通らず傷を負う事はない。

鎧の隙間を狙わなければ手傷を負う事はないのだ。(これは、義仲が矢傷を負う場の伏線

になっています)
⑧義仲は薄氷の深田に駆け込み、身動きがとれなくなり、その場で自害をしようとするが、

兼平が気にかかり後ろを振り向いた瞬間、石田二郎に兜の間を撃たれ重傷を負う。
⑨石田二郎為久が、義仲を討ち取り大声で、義仲を討ったと呼ばわる。
⑨その声を聴き、兼平は奮闘した後壮絶な自殺を遂げる。


注)「源平盛衰記」でも義仲最期はほとんど同じですが、巴に関する項は記述に少し

異なり、上記④⑤の順序が逆となります。

 

④最後の活躍を決した巴は、1騎敵陣に討ち入り、敵将を討ち義仲に捧げる。
⑤最期の供をしたいと言う巴に義仲は、「信濃の人に最期の様子を告げ、菩提を弔うよう

に」と指示。巴は、涙ながらに木曽へと落ち延びる。

能「巴」「兼平」と平家物語
「兼平」は、ほぼ平家物語に沿った形で構成されます。義仲は乳兄弟であり、幼いとき

から兄弟のように育った兼平と一緒に討死しようとするが、諫められ最期は兼平が気掛り

で後ろを振り返ったのが原因で討ち取られるなど、主従にして乳兄弟の情義が描かれます。
 「巴」は、前項の⑧から合戦と別れの物語が展開します。平家物語とは異なり、重傷を

負った義仲を救出し自害の場まで案内し・・・と言った展開になります。勇壮な合戦場面

が別れの哀しさを際立たせる名品となっています。

平家物語は歴史書ではなく、琵琶語りの台本ですから随所に「見てきたような嘘」を書いて

います。能も戯曲ですから、出典に対し主題を表現するのに相応しい潤色をするのは

当然です。同じ素材を元にして全く趣の違う曲ができあがったのでした。
 ちなみに、「巴」の作者は「不明、小次郎信光又は世阿弥とも」。「兼平」は「不明、

世阿弥とも」。との事なので、共に世阿弥作とすると世阿弥は、義仲最期の場に2通りの美

を掬い上げ全く曲趣の違う戯曲を創作した事になります。
 尚、「巴」「兼平」共によくできた曲ですが、人気度合いでは「巴」に一日の長がある

ようです。(ある統計によると、約200曲ある能楽の演能頻度は、「巴」31番目、「兼平」

141番目となっています。)

 

巴伝説・・・「平家物語」「朝比奈物語」「源平盛衰記」
 巴は女武者の代表者。ただ、歴史書「吾妻鏡」には登場せず、実在か否かは定かではあり

ません。以下は「巴」伝説の成立軌跡の推定です。

Step1:鎌倉時代を通じ巴は「美人・精兵」のヒロインとして定着した
 巴が登場するのは、「平家物語」義仲最期の場です。
 平家物語の成立は、義仲の死後60年程経った、1240年頃からと考えられています。
 各種異本がありますが、決定版とされる「覚一本」ができたのが、1350年頃。最も

古い形と言われる「延慶本」成立が1310年頃と推定されています。平家物語は、「平曲」

として1200年代後半から流行した大衆演芸のテキストですから、時と共に大衆の好みに

合わせて変容してきたのです。「覚一本」は成立以来100年の変容を経た結果ですから、

時代の好みを大きく反映した歴史小説(歴史書ではありません)に仕上がっています。

平家物語での巴の記述は、以下の通りです。
・義仲の信濃出陣に際し、山吹、巴2人の便女(身の回りの世話役)を伴った。
・京から敗走のとき、山吹は病気で従っていなかった。
・巴は、美人でかつ「強弓精兵」の1騎当千のつわものだった。
・この後は、前述の活躍をしてフェードアウトしていきます。
 美形の女武者で、最後は敵の重囲を破り戦場を離脱。物語に彗星のように現れ、消えて

いく。人気が出ないわけがありません。大衆演芸「平曲」のスーパーウーマンとして、

鎌倉時代が終わる頃には、だれもが知るヒロインになっていました。

Step2:鎌倉時代No.1の豪傑 朝比奈三郎義秀
 鎌倉時代は、貨幣経済の発達と共に、物流・情流が盛んになり、田楽・猿楽・平曲等が

盛行すると共に、御伽草子(室町物語)が流布するようになります。御伽草子の人気

ジャンルに英雄譚があります。その中で、鎌倉一の豪傑「朝比奈三郎義秀」の人気が

高まります。
 有名な逸話は、①鎌倉の「朝比奈切通」を一夜で開削した。②海に潜り素手で、鮫3匹

を捕え将軍頼家に献じた。③和田合戦の折、将軍御所の門を素手で打ち破った。等々正に

鎌倉時代を代表するスーパーマンと言えます。
 朝比奈三郎は和田義盛の三男として、屈託のない人生を送っていますから、族滅(和田

合戦)と言う突然の悲劇に襲われたとは言え、それまでの逸話は天真爛漫、湿り気のない

ヒーローです。所謂トリックスターに分類されるキャラクターですから長編物語の主人公

には向きません。江戸時代以後は、朝比奈が主人公の物語より、他の物語の引き立て役と

して記憶される事になります。代表的な物が「曾我物語」です。今でも歌舞伎の「外郎売」

等「曾我物」に出てきます。年齢等(曾我兄弟の方が朝比奈より年長)史実を考えれば

不自然な役回りですが、鎌倉時代のアクションに朝比奈三郎は不可欠の存在と誰もが感じ

る存在だったのです。
尚、狂言の現行曲「朝比奈」は六道の辻で亡者を地獄へ連れて行こうと待っていた閻魔大王

を、脅し附け極楽へ案内させる。と言うストーリーです。
 14世紀半ば頃は、誰もが知るヒーローになっていました。
 朝比奈三郎は、和田合戦の折、船で房総方面へ脱出し、その後は行方不明になっています。

これほどのヒーローだと各地に流離譚や隠棲の後を称する口伝が残るのですが、朝比奈三郎

の場合あまりの陽性さに、隠棲は似合わず、通説では高麗へ渡った事になっています。

死んだと言うのは感情的にしっくりこないし、日本におればそれなりの活躍がある

だろうに・・・。いっそ外国へ行った事にするのが簡単なケリの付け方だったのでしょう。
 現在、墓と称する場所は2か所あります。一つは静岡県御前崎、こちらは戦国時代今川家

配下の国人、朝比奈氏が先祖の墓として建てた物。もう一つは、群馬県長野原、こちらは

巴の実家(と言う事になっている)樋口氏(木曽樋口氏の支族?真庭念流の家元として著名)

が建てた物です。共に希代の豪傑、朝比奈三郎との関係を領民にアピールする為のオブジェ

と思われます。

Step3:源平一の女武者「巴」と鎌倉一の豪傑「朝比奈三郎」の結合
 平家物語諸本の中で、巴について詳しく書いているのが「源平盛衰記」です。源平盛衰記

の成立年代は諸説あります。原型は、初期平家物語成立直後からあり、エンタメ重視で書き

加えられたと想定され、現在の形になったのは、南北朝の頃と推定されます。俱利伽羅峠の

戦いでの「火牛の計」等荒唐無稽なエピソードが多く、事実関係を無視した記述が随所に見

られます。(平家物語は、エピソードに創作部分がありますが、事件、人の出自、年齢、

相関等は概ね史実に基づきます)
 源平盛衰記での巴を、義仲討死の前と後で見ていきます。
<義仲討死前>
 巴の素性は、「乳母子」とありますから、父は中原兼遠、兄は樋口兼光、今井兼平という

事になります。義仲とも幼い頃から兄妹同様に育ち、義仲挙兵にも同行、俱利伽羅峠の戦い

でも活躍します。(謡曲「巴」で「砺波山や俱利伽羅・・・分捕り功名のその数・・・」の

一節は源平盛衰記を踏まえた物と思われます)
 そして前述義仲最期の場面で、大活躍の後、義仲の命を受け木曽へと落ちていきます。
<義仲討死後>
 義仲討死後の巴について、源平盛衰記は次のように語ります。
・木曽に帰り義仲の命を果たした後、頼朝の命により鎌倉へ召喚される。
・処刑さるべき所、和田義盛の乞いによりその妻となる。
・和田義盛との間に朝比奈三郎義秀を産む。
・和田合戦の後は、越中石黒で、親・子・主の菩提を弔いながら91歳まで生きた。
 この後半生の記述は、偏に「成程、朝比奈三郎は巴の息子だったのか。道理で強いはずだ。」

と読者に思わせる為の創作だと思われます。
源平盛衰記の定本ができた南北朝の時代、伝説のスーパーウーマン「巴」と伝説のスーパー

マン「朝比奈三郎」が親子であった・・・。読者にとり、心躍りかつ納得できる事実だった

のです。
 さて真実はどうでしょうか?
 正史「吾妻鏡」には、和田合戦の時の朝比奈三郎の年齢が記されています。これから逆算

すると、義仲討死当時、朝比奈は既に8歳になっており、和田義盛と巴の間に出来た子供

ではあり得ない事になります。この件が江戸時代に指摘されると「実は、義仲と巴の間に

出来た子供を、和田義盛が養育した。」との説を言う人が出てきます。こちらはもっと荒唐

無稽な話です。頼朝は、義仲の子義高を殺し(当時11歳)、弟義経、範頼(流罪)を処分。

かつ範頼の子供は出家させています。こんな頼朝が義仲の子供を無事でいさせる訳があり

ません。
 源平盛衰記以外の平家物語諸本に、巴と和田義盛に関しての言及がない事から考えて、

この部分は源平盛衰記作者(と言っても、長年変容を重ねた作品なので、特定個人ではない

のですが)の創作と言えます。
 又、この2人の結合で都合がいいのは、①和田氏は族滅され公式の子孫がおらず、②巴も

その後がわからず、このシチュエーションの間違いの証明は「悪魔の証明」になってしまう

事でした。

もう一つの「巴」伝説
 巴と義仲の子孫を自称した氏族として、室町時代から戦国時代に木曽谷を領有した「木曽

氏」があります。こちらの家伝では、義仲討死後木曽に帰った巴は、秘かに義仲の子を出産。

親族を頼り、上州沼田に移ります。時移って鎌倉幕府滅亡時、足利尊氏の配下として活躍

した沼田家村は恩賞として、木曽谷を領有します。木曽谷を治めるにあたり、実は木曽義仲

の子孫であるとカミングアウトし、姓も「沼田」から「木曽」に改めたのでした。鎌倉幕府

が滅亡したので堂々と義仲の子孫であると公言できたのです。
 尚、木曽氏の始祖を義仲とするストーリーはこれ以外にもあり、鎌倉時代150年を通じ

公言できなかった、義仲子孫を名乗る事のもっともらしさ作りに苦心した事が伺われます。

「巴」の足跡
 巴の墓が各所に残されています。墓は、菩提を弔う「よすが」であり、遺骸が埋葬されて

いる必要はないので多数のゆかりの地に残されていても不思議はないのですが・・・
①粟津:義仲寺・墓
 能「巴」の前半の舞台となった寺で、義仲討死の地に巴が草庵を建て菩提を弔った所

と伝えられています。義仲・巴の墓標だけでなく、芭蕉の墓(遺言により亡くなった大阪

から遺骸を運びこの寺に葬った)もあります。
*芭蕉は「奥の細道」の後、この寺の近くに「幻住庵」を営み「方丈記」を意識した随筆

を書いています。
②木曽町:徳音寺・墓
 義仲が母の為に建てた寺。義仲、巴、兼平の墓がある。
③木曽町:興禅寺・義仲の遺髪
 義仲没後250年に木曽氏12代道信が建てた寺。巴の墓はないが、義仲の墓には巴が

持ち帰った義仲の遺髪が納められている。
④木曽町:長福寺・長刀
 木曽氏13代豊方が建てた寺。義仲の墓と共に、巴の「長刀」が寺宝として伝わって

いる。
⑤富山 南砺市JR福光駅前:巴塚
 源平盛衰記に91歳迄生きた「越中石黒」の地。「巴御前終焉の地」の塚が、巴の遺骸

を葬った後に植えたと言う樹齢750年の松の下にある。塚の建立は後世。
⑥印西市 小林:巴塚
 和田合戦の後、巴は和田の領地小林に隠れていた。後に朝比奈三郎と合流。8年余の後

朝比奈は北条氏の追求を逃れ、長男、三男を伴い信濃方面へ向かう。巴は朝比奈の次男と

ともにこの地で平穏に生涯を閉じた。
⑦小田原市:善栄寺・墓
 義仲・巴の墓。巴は和田合戦の後、琵琶湖畔粟津に義仲の墓を建てた後、小田原に帰り

善栄寺を建立した。尚、墓を作ったのは、戦国時代の小田原北条氏。
⑧上越市:五社神社・墓
 巴の墓。粟津から逃亡した巴は、越後に逃げ延び暮らしていた。その後、この地に流刑

となった親鸞聖人に帰依し、尼となり義仲の菩提を弔いつつ生涯を閉じた。尚、親鸞の

越後配流は義仲没から25年後。

このほかにも、横須賀、栃木等に巴の墓所と伝えられる所があります。伝説のスーパー

ウーマン巴の人気の程が偲ばれます。

 

 地元松戸市で謡曲を楽しみ、小鼓にもトライされ、能楽普及に活躍されている山本さんの「演目解説書」

「演目ノート」はpdfファイルをダウンロードで閲覧できます。

ダウンロード
松戸市の「謡曲連盟」の2017年合同発表時の能楽ノート(演目解説)
謡曲、仕舞をたしなむ観世流6グループ、宝生流1グループ、喜多流1グループ 計8グループ
の団体で、春秋に合同発表会を開催されてます。

山本さんは、各会からの演目受付、番組表作成、番組解説書作成
を担当しておられ、発表時配布された能楽ノートを作成されました。

日頃、謡とか能になじみのない人を対象に作成されたそうです。
松戸謡曲連盟合同発表時能楽ノート2017年by山本氏.pdf
PDFファイル 398.2 KB

12月16日(土)自演会が神戸の「藤井観謳会舞台」で開催されました。素謡、連吟、仕舞、舞囃子と日頃の成果が発表されました。舞囃子「吉野天人」では、院生の大鼓の技も披露されました。

 合間に、OBによる「頼政」の素謡披露の機会がありました。

終演後は、三宮の居酒屋で現役生交えた懇親会が行われました。現役生の謡曲や仕舞に対する思いや、日常学生生活を伺える貴重な機会でした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第8回風韻気韻会報告   2017年11月13日(月)  9:30~19:20

 

1.神戸旧居留地ウォーク(10:30~11:30

マラソン発祥記念碑 → 東遊園地(加納宗七像、陸奥宗光像、近代洋服発祥の地、
震災と復興のモニュメント)
→ 真珠会館 → 運上所跡 → 海軍訓練所跡記念碑 → アメリカ領事館 15番館
→ 商船三井、チャータードビル → 震災メモリアルパーク 
→ 居留地行事局(ナショナルシティ銀行)跡 38番館 → 神戸事件記念碑(三宮神社)

90分コースを皆様の健脚で60分周遊できました(計画が無謀とも)

 

2.昼食(12:30~13:10)

 神戸大学社会科学系アカデミア館(放送大学兵庫学習センター)にて昼食のつもりでしたが

 想定外の混雑で、弁当購入し、部室のあるグランドの南端で横一列に並んで、黙々と。

 弁当は暖かく、美味しく、好天に恵まれたのは幸いでした。

 70才前の男女が1列に並んで弁当を食べてる姿は異様だったでしょう。

 通り過ぎる学生は、我々に目を合わさないよう、急いで通り過ぎていきました。

 

3.謡会(13:20~16:00)

 下欄に番組表と上欄に記念写真(ボカシ無しは、アルバムに)。

 「箙」「松風」は神戸に因み、「菊慈童」は謡いやすさ、「鵜飼」は、個人的な要望によります。

 

4.図書館で開催中の「近代神戸の航路をたどる ~開港150年を迎えて~」視察

 入学時(1967年)100周年記念イベントの資料も展示。

 100周年だったのに、誰も記憶に無いようでした。

 

5.神戸大学キャンパス散策

 

6.懇親会(三ノ宮、バラライカ)(17:30~19:20)

 71年卒組が1年後輩に送り出された、思い出のロシア料理店。

 震災で、経営者も場所も変わりましたが、かすかに残る記憶を辿ることができました。

 谷村氏「今日、こうして皆と何でも無く集まって話をしてるが、

 明日から、こうした機会はなかなか得られないんだなあ~」と、しんみり。(1971年3月下旬の言)

 そして、2010年から風韻気韻会発足し、今年は8回目の開催に至りました。

 

 参加者は13人でした。

 

高島さんの所感

神戸は度々通う処ですが、お稽古、美術展、映画など、ピンポイントで行くだけなので、街歩きは興味深く、

心に残りました。
神戸市庁舎からの展望、設置してある彫刻(船越保武、柳原義達)・・・さすが県庁所在地の市庁舎?

・洋服発祥の記念碑(ボタン穴のある洋服の見頃、ボタンのついた袖の石像)

・東遊園地 希望の灯り、「笑み交わし やがて涙の わきいずる 復興なりし 街をいきつつ」の歌碑

・加納宗七像の陸奥宗光の書による題字・コレラとラムネの話・被災した波止場 等々。

満員の学生食堂の出口で次々、空になる箱をよそ目に最後に残った チョリギ鶏・・・弁当を確保。

運動場前の石に座っての昼食。チョリギなるものは初めて。温かいし、結構美味しかった。

・・・ネットで検索すると コチュジャン、おろしニンニク、ごま油などを加えたドレッシング

 「ニンニクは入ってないか」と確かめていた御仁がいたけれど大丈夫だったかしら?

宇治先生の舞台 鏡板の松の画の色彩の鮮やかさに驚きました。

元の襖絵は、古くなって少し傷んでいるはずですから、保護シ-トの効果かもしれません。

檜の舞台も鉋がかけられ、清々しく、上手に移築して下さったと、職人の方に感謝したいです。
幹事長の田畑君から汚さないように注意されましたが、ここで飲食してはいけませんね。

謡会、(私は残念ながら風邪をひいて咳がでましたが)皆、大分謡い込んでいて、気持ちの良い会でした。
部室には手に取って読みたいような謡い方のてびきの本などがありました。

平日で、行き交う学生達を見られたのも良かった。

青空、紅葉の樹木を抜けて六甲台から下って行くのも気持ち良く、100年記念館からの海の眺望も楽しめました。

バラライカ 壺焼き(グリヴィ-)のきのこ状の皮 美味でした。

又、来年 !


徒然謡倶楽部 人丸ツアー開催内容 (代表 前田紀一郎)

 

☆開催日時:平成29年9月6日(水)10:30~17:00

  集合地と集合時間:山陽電車 明石人丸前駅 改札口  10:00
☆場所:柿本神社参拝と奉納謡会
  10:30柿本神社参拝、拝殿にてご祈祷御祓いを受ける。
  11:00謡曲奉納・・・社務所2階パオホールにて。
新作「人丸」、「俊成忠度」、「草子洗小町」、「岩船」
        ~昼食と休憩~
  15:00~月照寺、聖泉「亀の水」をガイドさんに案内してもらう。
  16:00ころ解散
 ☆参加費:3,000円 (当日受付けます)

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徒然謡倶楽部 柿本神社謡会 於 柿本神社パオホール

          番  組
      新作曲奉納 
人  丸  シテ池田幸司 ワキ名村篤明  (岩瀬)


       トモ上田孝司

       ツレ野瀬田志津子
俊成忠度 シテ大石啓子 ワキ岡田康文 (中崎)     

         子方近藤裕子
         貫之飯田博江
草子洗小町 シテ藤谷美保子 ワキ高嶋千明(大島)

岩  船   シテ武内安雄 ワキ火口節夫  (湯朝)
   

 

<参加グループ>

いなみの学園OB、神大OB、一般、衣川コミュニティセンター謡曲サークル 

<神大OB参加者>

前田紀一郎、久下 昌男、大島 浩子、草壁美代子、

湯朝 憲之、川邊 利招、高島 千明、武内 安雄、

中崎 和美、飯田 博江(卒年次順)

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天文科学館と東経135度子午線の直ぐ北側に柿本神社があります。その神社ホールで池田氏「人丸」創作(岩瀬氏指導)を記念して、前田さんが奉納企画されました。


前田氏主催の「徒然謡倶楽部」が3月29日(水)~30日(木)に下記内容で開催されました。

29日:JR湖西線近江今津駅10時10分集合⇒今津港⇒竹生島参拝⇒今津港⇒宿舎「白浜荘」にて昼食⇒謡会⇒夕食宿泊
30日:宿舎⇒白髭神社参拝⇒浮御堂⇒昼食⇒三井寺参詣⇒Jr大津駅15時半・・解散

神戸大OB含め21人参加されました。

 

活動の報告とは別に、開催経緯や旅行中の思わぬ出会いが記されておりますので、まずご案内致します。


                                                                                   2017.4.7

           琵琶湖周航の歌資料館での思わぬ出会い
                                      高島千明

 春まだ浅き3月末、徒然謡倶楽部の「湖西謡ツア-」(前田紀一郎氏主催)が、「琵琶湖周航の歌資料館」見学から始まった。
 琵琶湖周航の歌の原曲「ひつじぐさ」の作曲者吉田千秋に関する展示資料を見ている時、陳列ケ-スの中に、「吉田千秋と植物」という小冊子が目に入った。館員に尋ねると、非売品だとのこと。「それなら少し見せて頂けませんか」と御願いして目を通す。千秋は農業大学校予科で学び、チュ-リップ、菖蒲、ダリア、ボタンなどを育てたりしていた。さらに読み進むと父親は歴史学者で、世阿弥云々・・・とあった。冊子を返し、他の展示を見て、父親の名を冠した記念博物館が新潟にあることも知った。館外へ出たが、気になり、父親の名が東伍であることをメモして資料館を後にした。
 ツア-の翌日、ネットで「吉田東伍」を検索すると、

 世阿弥発見100年-吉田東伍と「世阿弥十六部集」 佐藤 和道 / 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手の項目が見出された。

 世阿弥が執筆した、能楽論書が能役者や一部の権力者に秘蔵され、長く存在が知られなかったこと、東伍が発見した十六部集を速やかに翻刻・校訂し、世に知らしめたことなどが書かれている。

 琵琶湖周航の歌が「ひつじぐさ」を原曲としていたことは長い間忘れ去られており、「作詞作曲 小口太郎」とされていた。「ひつじぐさ」の作曲者が吉田千秋であり、歴史学者吉田東伍の次男であることが判明したのは平成5年である。

 湖西謡ツア-では、謡にちなむ竹生島、白鬚神社、三井寺を訪ねた。謡には関係のない、竹生島へのフェリ-の乗船待ちの空き時間に寄ったと思っていた資料館で、たまたま、私が、生物を専攻していたため、目に止まった小冊子から世阿弥研究に大きく貢献した吉田東伍へと導かれた。
20~30代の頃,読んだことのある岩波の日本思想大系の世阿弥 禅竹をひらくと、当時は目に触れなかった吉田東伍の名がある。風姿花伝を読み直す機に出来ればと思う。

謡の同好 徒然謡倶楽部の「湖西謡ツア-」にふさわしい出会いとなった。
                                  
<付記>
1 スイレン科スイレン属の花は世界に何十種類もあるが日本にはヒツジグサ(未草)と呼ばれる比較的小さな白い花を付ける一種のみが古来から生育している。
未の刻(午後2時)頃に花を咲かせることから、ヒツジグサと名付けられたといわれるが実際には朝から夕方まで花を咲かせる。
2 今日、新潟県の花とされているチュ-リップの大量栽培に成功したのは小田喜平太であるが、栽培着手は吉田千秋の方が2年早かった。
 吉田千秋については、ネットで検索すると
 原曲「ひつじぐさ」と作曲者「吉田千秋」 に詳細が掲載されている。

 

蛇足:「琵琶湖周航の歌」の歌い出だしで、最後は「七里ヶ浜の哀歌」(真白き富士の根)で歌い終わっても、気付きにくい話の謎が解けました。「七里ヶ浜の哀歌」の引用オリジナルは「ヒツジクサ」ではなくイギリス民謡→聖歌623番「いつかは知らねど」→「明治唱歌」 「夢の外」なので別だそうですが、後に「七里ヶ浜の哀歌」のコード進行に「琵琶湖周航の歌」のメロディが無理矢理組み合わされて「琵琶湖哀歌」が誕生し、この「琵琶湖哀歌」により曲げられた旋律線が逆に「琵琶湖周航の歌」に取り込まれる形で間接的影響を与えているのだそうです。日本音階(ファとシ抜き)化編で、テンポも類似してます。

 能楽演目の構成や物語りも引用元から類似派生元まで家系図の様なチャートにできれば面白そうですが・・・(武内安雄記)


                                                      <近江の国 雑感+> 
                                                                                                                                                 徒然謡倶楽部 前田紀一郎


2015年4月に岐阜県本巣市根雨の白鬚神社の末社に参詣して以来、なんだか強く関心をもつようになった。

白鬚総社は滋賀県近江今津市にあって、謡曲仲間の戸次(べっき)威左武さんが在住であり、彼の地の情報が得られ

やすいなどと、思い込みを強めた次第です。
    瀬戸内海が古代から大陸・朝鮮半島からの渡来人の流入通路であったころに、近江の国・湖西地区もそれに並んで重要な通り道であった。
     若狭海岸に着いた渡来人たちは、まず湖西の安曇川地区(近江今津市)の先陣渡来人の集落に落ち着き、新らしい文明を身に着けた2世3世は先住の縄文人と交わりながら、湖東や或いは南下して「倭国(わこく)」さらにへ活動の場を拡げていった。縄文期のことである。
     彼らは、琵琶湖周辺平野に稲作生産を持ち込み、豊かな食糧生産力を基盤として力を蓄え、ある者は南下(まずは大津まで、次いで大和国へ)、ある者は湖西から北陸方面へと、琵琶湖水運を活用して存在感を高めていき、倭人の地方豪族をパトロンとして、半島との交易の主軸を握ることになる。
     渡来系の人々は、弥生期古墳時代(~飛鳥時代)には、鉄や土器や繊維の生産技術に加えて、文字(漢字)を落ち込み、やがて大和王朝に深く食い込み、律令制度と仏教という社会制度つくりに力添えをいたしたのである。
     背景には、朝鮮半島のうち続く内乱によって、新羅・百済の難民(高級役人から各種工人まで)が紀元前200年~3世紀を第1波とし、5世紀後半~6世紀の第4波まで、凡そ500年間に及んだ。

 

     さて、白鬚神社であるが、御祭神は猿田彦の命。かれは縄文人の“国つ神”の立場で、大和王権と出雲王権の和睦をリードしたが、渡来系実力者と親睦関係があって、その文明力・経済力を背景に活躍したものではないかと考えられる。
また、白鬚神社を名のる神社は渡来人が多く住む地方(北陸、東北、稀に西九州)にあるため、渡来人がその祖神を祀ったものではないか、という説もある。
     創建は、神社縁起によれば、11代垂仁天皇25年で、西暦換算では、BC25年である(ちょっとおかしい)。謡曲の「白鬚」は観阿弥の作。出典は太平記の比叡山開闢事で、比叡山開闢縁起と白鬚明神縁起の関係は、複雑で私にはよくわからない。
      比叡山延暦寺は伝教大師最澄により、788年創建された。(因みに三井寺建立は672年)
      ところで、完成された芸能として最初に上演された能が、観阿弥による「白髭」だと諏訪春夫氏はいう。(以下同氏著「能・狂言の誕生」)能に曲舞を取り入れ、曲舞を楽曲の中心に据えた、画期的な演出を打ち出したから、という。1374年の今熊野神社にて。世阿弥12歳、足利義満16歳の時。申楽から飛翔して能になった年である。
       曲舞とは、①立って旋回運動をする。②謡いながら舞う。③足拍 子を踏む もので、従来は白拍子や曲舞専門職が舞うものであった。
       心を込めて「白鬚」を謡いたいものである。
近江の国は、平城京 平安京の時代に入っても重要な立ち位置として孫愛し続けたように思う。時代が下って政治的宗教的に複雑化する中で、世の乱れ、戦乱に明け暮れる時代が徳川初期まで続く。近江の人たちは都度立ち上がって次の時代に向かう度ごとに今季と知恵を重ねてきた。明治期からは、一見地味な地域にみえるが、積みあがった歴史の厚みたるや、湖面のように静かで深い色合いをもっているように思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

①    竹生島        長浜市早崎町 竹生島
②    白鬚         高島市高島町 白鬚神社
③    烏帽子折(前場)  竜王町鏡 源義経宿泊館跡、                 元服の池
④    望月         守山市守山町 甲屋之址
⑤    橋弁慶(前場)   比叡山西塔
⑥    大会         比叡山西塔
⑦    雷電(前場)     比叡山延暦寺
⑧    善界(後場)    比叡山

 

 

 

 

 

 

⑨    志賀          大津市南志賀 大伴黒主神社
⑩    三井寺(後場)    大津市園城寺町 三井寺
⑪    自然居士(後場)  大津市大津浜
⑫    関寺小町      大津市逢坂 長安寺
⑬    鸚鵡小町      大津市逢坂 長安寺
⑭    蝉丸          大津市逢坂 関蝉丸神社下社、

                                           上社、蝉丸神社
⑮    巴            大津市馬場 義仲寺
⑯    兼平         大津市晴風 今井兼平墓所、

                                           草津市矢橋 矢橋公園
⑰    源氏供養      大津市石山寺 石山寺

 

 

                         謡蹟地図:久下氏作


   徒然謡倶楽部のその後の活動報告

                    2017.3.3  前田紀一郎

2016年9月に投稿してご笑読頂いたように、親しい謡仲間に声をかけて、ツアーあり、謡会あり・・、楽しみを増やしています。


今回は、年明けた1月29日(日)に “ミニ謡会”と称して 
  ・会場は坂口正風楽堂(加古川市加古川町)
  ・参加グループは
    いなみ野学園謡曲OB 37期、38期、41期
    鷺諷会(姫路地区の凌霜OBメンバー)
    神鋼謡曲OB会
             以上22名
  ・番組は、御題「野」の合吟に始まり、
     素謡 菊慈童、敦盛、東北、小督、紅葉狩、富士太鼓、大仏供養、猩々
     仕舞 4番 
  ・お昼は吸い物付きちらし寿司をゆっくり食べて一日を楽しみました。
 普段、いなみ野学園OBの3年学年のコーチをしているのですが(経験7~10年)、マンネリ打破のために上手な人達の謡に触れ、また地謡に加わって一緒に謡う機会を作っています。
 大学OBさんからは「みんな一生懸命に謡っている、それが良かった」とエールをもらって喜んでおります。

 正風楽堂は個人宅にある敷舞台で鏡板も切り戸口も、短いながら橋掛かりもある舞台です。2間四方で少し狭いですが、仕舞は何とか舞える大きさです。
オーナーは坂口功さんという名誉師範です。坂口さんとはいなみ野学園謡曲部で出会い(3年先輩)、某重工会社謡曲クラブで宇治正夫先生の指導を受けていたことを知りました。
ご縁を感じて社中に加えて頂き、かれこれ10年のお付き合いになります。

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 前田さんの徒然謡倶楽部は、謡曲を開かれた場で謡える機会として、楽しみにしています。今回は“神鋼謡曲OB会”も参加されました。いなみの学園謡曲部の皆様と、鷺諷会との共演も回を追う毎に馴染んでこられ、大勢で調和の取れた迫力ある謡が出来たのでは無いか、と感じました。(感想付記:参加した武内)


                                                              2016.9.19
              「徒然謡倶楽部」・・・謡仲間たちと私の遊び空間・・
                                                     前田紀一郎(1963年卒)

先の9月13日の投稿欄で久下昌男さんの「淡路謡ツアー」紹介文が寄せられてあり、久下さんのホームページ

「氷心玉壷」を開いて紀行文をお読みになった方も多いかと思います。
このツアーを企画した私から「徒然謡倶楽部」なるグループの活動を紹介案内させて頂きます。

☆「徒然謡倶楽部」の謡仲間
 ・高齢者大学「いなみ野学園(加古川市)」謡曲部OBたち、
 ・神戸市~東播在住の神戸大学風韻会OBたち。
   出向いた先で謡うので、達者人に地頭を務めて頂く。
 ・親しい謡仲間。
 ・会員制でなく、募集人数によって声掛け先が伸縮する。
☆ツアーのコンテンツ
 ・能謡曲に所縁の地又は古来から継承されてきた田楽/能楽見物。
 ・その近隣道中の景勝地/社寺遊覧。
 ・ウ~ンと唸る食事処(と宿泊)と謡ができる場所。
 ・鉄道、航空、貸切りバスの決定。(募集人数の決定)
 ・以上を毎回久下さんと私で計画を立てている。楠田さんが時々加わる。
 ・旅行が終わって3週間後に、久下さん執筆による詳細な旅行記が全員に配られる。

   この冊子が当ツアーのグレード感を最高ならしめている、と大評判である。私もハナがタカイ。
    全部の記録は彼のHP「氷心玉壷」にアップされているので、  ミカンの皮を剥きながら読んでください。
 ・私のミッションは「遊びをせむとやうまれけん」(梁塵秘抄)です。

☆徒然謡倶楽部のツアーの実績
  年/月 (泊)  行先 謡った所   
1)H21/06(2泊) 佐渡・能の里紀行  12名・・里井先輩に背中を押され、丹羽君紹介の宿をとり、最高!      
  諏訪神社能舞台 (素2、連2)     
2)H22/05     赤穂能新作能「河勝」28名 
  赤穂御崎で食事会   ―――
3)H24/01(5)  黒川能と東北旅行 10名 ・・厳冬期の黒川能に感激。繋いでいくことの大変さが身に染みた  
  角館交流センター(素2、連2)     
4)H25/04    室津加茂神社      59名 ・・大人数地謡の醍醐味を築かされた。 
  室津町民センター(素)賀茂、室君     “100人大連吟”を目指そう!    
   小五月祭宵宮参拝と「古曲棹の歌」
5)H26/02 (1) 水海の田楽能舞 12名 ・・・社殿で田楽の“大地踏み”を見ると、古代の祈る姿がよみがえる。 
  池田町「冠荘」座敷(素)2曲     
6)H26/04    室津加茂神社  30名  
  室津町民センター(素)賀茂、室君        
   小五月祭昼宮参拝と「棹の歌」
7)H26/07(1)天河弁財天社例大祭 21名・・・日本一のパワースポットだ。 
  下市・弥助鮨座敷 (素)3曲         下市「弥助」の昼食、夕食の「おおとり」が素敵。    
  と奉納能拝観        
8)H27年/04(1)  能郷の里と薄墨桜 24名 ・・小さな村落が能の保存に懸命な様子が、ビンビン伝わってくる   
  樽見住吉屋座敷 素2、連5          樽見の薄墨桜も見事であった。   
                     
9)H27年/10  宇治平等院 27名   ・・・宇治川の流れの音を聞きながら合戦の様を謡う、贅沢さ!
  「宇治川」座敷 「頼政」ほか3曲    
10)H28年/06  国生みの島・淡路 33名・・・お祓い祝詞のあとで、謡を奉納できて幸せな気持ちになった。
  おのころ島神社神楽殿            念願の“ハモ料理”に満腹した。 
   奉納「淡路」「草子洗小町」      

 

☆節の上下でフウフウしているお稽古だけでなくて、謡の周辺で楽しく遊行する所を仲間と一緒に訪ね歩きたい。                                                                以上


「徒然謡倶楽部」の「淡路謡ツアー」紀行ご案内

 ≪おのころ島神社とハモ料理≫

 

今年6月前田紀一郎さんが主宰される「徒然謡倶楽部」のイベントで、「淡路謡ツアー」として淡路島へ謡蹟巡りと奉納謡会の旅行をされました。大学能楽部OB有志も参加されました。その紀行文を同行の久下昌男さんが自身のホームページに掲載されたのをとても興味深く拝見しましたので、ご両人のお許しを得て紹介させていただきます。詳細は久下さんのホームページの“淡路島紀行”、

 

http://jiuxia.web.fc2.com/Kikopage/K18Awaji/K18Awaji.html

 

でご覧になれます。(青英文字をクリックするだけです)

 

 紀行文の書き出しの一部と探訪地図を以下に転載します。

                         (段野 記)

 

 

 

 

 

謡友のMさんからは、以前から淡路島に渡り、謡会を開催して“ハモ料理”に舌つづみ打ちたいという相談を持ち掛けられていました。幸いなことに淡路島には私たちの同学同好であるNさんが在住されており、彼の案内で謡蹟めぐりやハモ料理を満喫するという計画が実現されかかったことがありましたが、都合が折り合わず実現には至りませんでした。

 

  その再挑戦という訳ではありませんが、今回Mさん主宰の「徒然謡倶楽部」による謡曲行脚で、淡路島のしかるべき神社で謡曲を奉納し、昼食にハモを食べようという計画を立案、Nさんに事前調査を依頼し、3月にMさんと淡路島を訪問、Nさんと合流して下見を開始しました。

 

 

 

【「徒然謡倶楽部」の「淡路謡ツアー」に参加して】武内安雄記

 

 今回“おのころ島神社”で奉納謡会が開催されました。「淡路」と「草子洗小町」でした。「淡路」のシテを予定されていた中崎さんが、喉の不調を訴えられ、直前に代役が回ってきました。「淡路」の謡本は何とか入手しましたが、謡いを聞いたこともありませんし、手持ちの録音集(レコードやFM放送)にもありません。どんな調子で謡うべきか、詞章を見ながら何となく「高砂」調で謡うことにしました。ところが謡始めますと、“おのころ島神社”の雰囲気なのでしょう、神官の祝詞の直後のせいでしょうか、気持ちよく声が出始めました。「うまく謡おう」と言う、気負いもなく無心の境地でした。久下さんの“淡路島紀行”内で詳しく記されています。


12月12日(土)自演会が神戸の「藤井観謳会舞台」で開催されました。今年は男子学生が3人加わり、演目もバラエティに富みました。そして、素謡、仕舞、舞囃子と日頃の成果が発表されました。

 合間に、OBによる「俊寛」の素謡披露の機会がありました。

終演後は、三宮の居酒屋で現役生交えた懇親会が行われました。

 現役生の精進の成果を祝し、OBの支援として、紋付き袴などの着付けアドバイスの在り方など、提案がありました。

 能楽、謡を通じた幅広い年齢層の貴重な交流の場と言えます。

 


10月31日の大学のホームカミングデーに出かけた際に部室を訪問しました。丁度部員3人で、自演会の舞囃子の稽古中。邪魔をしないように早々に辞去しました。現役部員の皆さん、頑張ってますよ。

 

(段野 記)


2015年11月4日 第6回「風韻気韻会」は姫路で開催されました。白鷺城が改修された記念です。

 (ボカシ無しはアルバムに)

  会の名は長い間決まらず、71・72年卒風韻会OB会などと称してましたが、今年「風韻気韻会」と決まりました。

 まず、真っ白に改修された白鷺城の天守閣から西の丸を見物。和服の二人(西田、中塚)と福田は登城せず昼食から参加です。

  謡会はお城近くのイーグレ地下の舞台付き小ホールです。勿論というか、200の観客席は無人です。
 13:00~16:30まで、近況報告会を終え、播磨に因んだ3曲(高砂、賀茂、水無月祓)と、土蜘蛛、葵上をひたすら謡います。

 

付祝言は「岩船」にしました。初めての人も多く、コピーを見ながらでした。

金銀珠玉は降り満ちて。
山の如くに津守の浦に。
君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。
なりにける。


  還暦後の稽古は様々ですが、概ね何らかのやり方を取り入れて精進されてるようです。師匠によって謡い方が違うのを聞くのも、楽しみの一つです。

  終了後、懇親会で風韻会時代の暴露話や噂話に花が咲きます。懇親会を半ば過ぎると、誰それの謡い方が「どうのうこうのう」と言う話が出てきますが、お開きの合図と捉え、終了です。

 

  2016年は10月31日 彦根~竹生島~米原のローザンベリー多和田~米原(懇親会)の予定です。

武内 記

 

「高島 記」

当日は気候も爽やかで、皆で姫路城に登れて良かったです。
謡会の会場のイーグレは展示場の殺風景な会場をイメージしていましたが、アートホールの舞台は照明も良く、響きも良かったのだと思います。
お役の人も地謡も力がこもっていて、よくそろっていて、気持ちの良い謡会になったと思います。
かごのや うさぎの料理もおいしかったし、楽しい一日になりました。

 


西田さん企画の大津伝統芸能会館「蝉丸」鑑賞ツアーに14人が参加。

内訳は姫路の鷺諷会、奈良から川邊氏、大阪から久下氏、前田氏関係者のいなみ野学園謡曲部員、そして西田氏友人。
【徳林庵】
 南禅寺第260世雲英正怡禅師が1550年に仁明天皇第四の宮人康(さねやす)親王の菩提を弔うために開創した。この親王が蝉丸のモデルと言われる。写真は四の宮明神と人康親王を祀る供養塔、蝉丸塔とも呼ばれる。
 【蝉丸神社(由緒)】
 天慶九年(946年) 蝉丸を主神として祠られる。蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され当宮の免許により復興したものです
その後 万治三年(1660年)現在の社が建立され 街道の守護神 猿田彦命と豊玉姫命を合祀してお祠りしてあります

 

 これやこのゆくもかへるも
    わかれてはしるも
  しらぬもあふさか乃せき


 蝉丸神社の拝殿で「蝉丸」の一部を謡う。

 うなぎの「かねよ」で昼食。そして

大津市伝統芸能会館へ。住所の大津市園城寺町は三井寺の正式名「長等山園城寺(おんじょうじ)」が町名に。

蝉丸:片山九郎右衛門師/逆髪:味方玄師。

(武内 記)


7月の初めにOGの飯田博江さんが、修理済みの袴とともにたくさんの能面を持って能楽部の部室を訪問し、室内の整理整頓にご協力いただきました。1年生の田畑君が大工仕事を担当して壁面を全面張り替えし、見違えるように明るくなりました。飯田さんのご尊父が打たれた能面を飾り付けて、とても能楽部らしくなったように見受けられます。大掃除に丸一日かけて取り組んだ現役の関野さんと長谷川さん、田畑君、ご苦労様でした。飯田さん、本当にありがとうございました。卒業生の皆さんもどうぞ一度部室を覗いてみてください。

                   (段野記)


       装束の話-まず襟もとから
                                浦田保親

                         (京都観世会会館報誌7月より)

 装束を着るとき、演者は各自で綿人りの胴着を身につけ装束部屋に入ります。これは、大きな装束に負けないよう身体に肉付けするためや、汗が直接装束につかないためのものです。
 このあと、いよいよ着付けていくのですが、まず初めに着付けるのが襟もと。様々な色の襟を胴着の襟に重ねて程良い幅に折り、下前・上前と合わせます。その上に装束を重ねていきますので、襟もとから少し見えるだけであまり目立たないかもしれません。しかし、その役柄によりその襟の色を変えて着用しています。
 襟は大きく分類して、白系・赤系・浅黄系・紺系の4色を使い分けています。
【白系】白は大事な色として扱われ、主に主役・シテに用います。紅入装束を着る若い女性役のシテ (井筒・野宮などのシテ、道成寺や、船弁慶の前シテなど)、品格のある役柄 (翁や大原御幸の法皇役など)、また白系で揃えた装束を着る役柄。シテの場合、基本的に白は二枚重ねます。また他の色と組み合わせて、様々なシテに使うこともあります。
【赤系】白系と同じく若い女性役に用いますが、赤襟のみで使う場合は主に助演者・ツレに用います。またほとんどの子方にも赤を用います。ですので子方用の胴着には、初めから赤の襟が付いているものが多いです。白と組み合わせますと、白二枚のときと同じく若い女性役のシテに用います。装束の色合いを考えて「白+白」、または「白+赤」を選びます。他に、菊慈童や小鍛冶の前シテなどの慈童・童子役や、敦盛・経正等の公達役にも白と赤を組み合わせて使います。
【浅黄系】尉や公卿、山伏・僧等の男性役、中年代の女性役など、シテにもツレにも、またおワキにもと、用途は幅広く使用頻度も多い色です。白と組み合わせますと、「白+赤」と同じく童子や公達役等に使い、これも装束の色合いや演出により使い分けています。
【紺系】鬼神や龍神・天狗など、また屋島や田村等の武将役に使います。安宅や正尊等にも用い、動きの多い強い役柄に使う色です。これはシテでも白とは合わせず、紺色のみを使うことが多いです。
 四つの色襟の用途をご紹介しましたが、その各色の中にも、淡い・濃い、明るい・暗い等の細かい色違いのものがあり、使い分けています。また、この4色の他にも、ツレ全般に使う金茶や、姥役等に使う萌黄等があり、どの色を使うかはその都度選んでいます。 襟もとから少しだけ覗く色襟。まして顎から烏帽子や頭巾の紐を垂らしていたりすると、客席からはほとんど見えないかもしれません。しかし、この様に役柄により色を使い分けています。装束を着るときに、一番初めに着付けるのがこの色襟。私はいつもこれを着付けて貰うとき、まずこれから演ずる役柄のイメージカラーに身体が染まっていくような気持になります。この襟を巻くところから、徐々に役に入っていく、そんな能楽師の隠れたこだわり。
 --能をご覧になるとき、襟もとの色合いにご注目いただくのも面白いのではないでしょうか。

(文章は、浦田師引用、写真は5月31日の鳴滝能「花月」演能前着付け実演より  武内編)


                                                                      2015年6月10日 

                                                  「改めて宇治正夫先生から教わったこと」
                                                                                                                                         昭和40年卒 段野治雄

 社中の一員として宇治先生の指導を受けていた時分、大阪の稽古場で船橋さんという方とよくご一緒しその稽古をよく聴かせてもらったり、大会の前の稽古で社中の大先輩が大汗で大きな声で謡っておられるのに「聞こえません、もう一度!」と十度もそれ以上も先生からやり直しを命じられている稽古がとても参考になりました。
また当時よく出張で家を留守にしており、毎日5分の練習もできません、との言い訳をしたとき先生から「声を出さずに謡をする」ことを勧められながら怠惰から実行せず、先生が亡くなられて数年たってそれを思い出して実行しました。それが自分なりに、謡の奥深さを覗くことができるようになったと実感できたきっかけでした。
 この会誌は私が2年生後期から入部して間もない頃の発行で、この記事を読むことが出来たはずですが全然記憶にありませんでした。今の私には多少の理解が及んで改めて興味を引きました。そんな部分を抜粋します。

 神戸大学風韻会会誌第3号(30周年記念誌 昭和38年3月発行)「座談会 宇治先生を囲んで」より

前略
藤井:~戦前と戦後とでは習う人の気持ちはどうでしょう?
宇治:大きくみて変わってますね。一番感じるのは、戦前は稽古場で初めから終わりまで居る人か、または半分程は聞いている人が多かったものです。今は自分の稽古が済むと帰る。時間が無いということもあるのでしょうが、他人の謡というものを聴きませんね。それから所謂、微妙なところを聴いて参考にしようとするところがない。合理的に聴いて、あとは自分で判断していこうとするようです。昔は、「あの先生はこういう謡い方をする」とは言っても「本はこうだ」とは言わなかった。私はそんなことは無頓着でした。根本的原理があって、拍子に合うからどう、合わないからどうという根本の原則が問題で、他のことは問題でない。昔の人は止むを得ず先生の謡を聴いて耳を頼りにした。それだけに精神的な面では深かったんでしょうね。今は眼ばかり働かせるため、解りにくいです。」

中略
久下:先生が謡をお習いになった頃はどんな練習方法をなさいましたか?
宇治:色々ありましてね。寒稽古というのは、正月6日から初めて、寒の間年越までやる。これは、部屋の中を暖め、蒸気を立てておいて1時間半程やります。初めは声を出さずに腹だけで「それ青陽の春になれば・・」とやり、次にスリ声というか、喉をスッて「それ青陽の・・」とやり、しまいにまともに声を出してやる。これは非常に合理的であって、声帯を破らないのです。
 若い時は摩耶によく登りました。摩耶の奥の八丁は急な坂で、そこを走って登ったり降りたり、謡いながらね、息切れしないように。いつか摩耶を越えて有馬へ降り、温泉に入ってまた六甲を越して帰ってきて、その晩月並会をやったこともあります。この時は参ったですね(笑)。その他色々やったものです。一番良いと思ったのは、部屋を暖めて寒にやることでしょう。

久下:僕たちの合宿で、4日位すると声がかすれて出なくなるのは、どうなのでしょう?
宇治:声帯を破る程やるのはいけません。毎日5分か10分でも続けてやって、時々長時間にやるのがよろしいが、1週間も2週間も休んで、急に長時間やるのは良くないです。効果ありません。まあ毎日20分位が丁度よろしいね。

井上:声が出なくなる程やるのはやり過ぎですか?
宇治:声帯が破れる寸前にやめる、(笑)声がかすれるくらいはある程度よいでしょう。

前田:1年生などは合宿に参加すると急に良い声になるようですが・・・?
宇治:そうでしょうね。しかし合宿を重ねるよりも、毎日やるのが良いのです。実際ある程度までは順調に上達しますが、それからは困難ですね。

井上:先生がいつもおっしゃる、腹に力を入れるというのは多く曲をこなして判ってくるものですか?
宇治:そういうものでもないでしょう。それは座禅と同じで、声だけでなく息を整えなければだめですし、気合ということも大切です。これは一朝一夕にできるものではないですね。
 私はいろんなことをやりました。正座法もやりました。手を膝に組んで背骨を真直ぐにして、天から清らかな水が頭のてっぺんに落ちてきて、これが身体の隅々まで洗い清めてゆくという思いを込めて、1時間も瞑目していると、とても良い気持ちになります。無念無想といいますが、何も考えないでいようと思うとかえって邪念が湧いてくる。(笑)これは駄目です。今言ったように、天から清水が落ちてくるという気持ちで正座していると、無念無想になれる。~
後略


春の鳴滝能鑑賞記です
師匠の杉浦豊彦師の「花月」でした。

 

「花月」の解説から、能装束の着付け実演があり、終演後は各能楽師の挨拶がありました。

 

“曲舞”を楽しめることから「花月」を選択されたようです。
 能舞
台正面とワキ方面の100席ほどです。階(きざはし)下の正面最前列に陣取り、胡座を勝手に許して貰いました。信長、秀吉は曲舞を強調した幸若舞を好んだそうですが、本日は信長、秀吉になった気分でした。

 

 照明を落とした“行灯”の灯りの中で、師匠の滑舌の良い美声ワキの有松遼一師、3人の地謡のハーモニーが心地よく届きました。  終演後の能楽師の挨拶は、良い演出でした。
しきたりがあるにせよ、一般能楽堂でも舞台終了
時挨拶はお願いしたいと思います。
 出演後の能楽師の挨拶で能が、より身近に感じられました。

 

30日(土)は神戸の上田能楽堂で「弱法師」「女郎花」を鑑賞しました。シテが詞章に詰まった時後見がフォローすることを知りました。

 

同席 川邊、西田、(武内 記)


5月2日(土)17:15姫路城改修記念行事「薪能」(第45回)が開催されました。

例年8月第1日曜日頃開催されますが、今年は記念行事に纏めたようです。演目は「羽衣」片山九郎右衛門、江崎正左衛門、狂言「濯ぎ川」茂山千五郎、能「正尊」上田貴弘、江崎欽次朗でした。

「羽衣」(彩色之伝)は五月晴れの夕刻で気温も下がり始め、雰囲気も良かったと思います。個人的に片山九郎右衛門師の舞は大きい動きで滑らかなのが好きですので、観客の動きでざわつく中でも、集中して鑑賞できました。最後には後ろ向き(観客席に向いたまま)で、揚幕に消えていくのも印象に残ります。

「正尊」の演出には驚きました。仏倒れと空中前回転胡座着地(能での表現は「トンボ」だそうです。5/13中崎さん、上田大介師に質問で)もそれぞれ3人が次々披露。江崎欽次朗師の声量もマイクでカバーされ、迫力も十分です。

薪能の雰囲気や演出の良さと、室内の緻密な演能の良さと、それぞれありますが、今回の「薪能」で新規能ファンが300人は誕生したのでは無いかと、効果を皮算用しました。

 新聞には観客1万人とありましたが、5000人位だったような気がします。

姫路の演能の特長はワキ方江崎正左衛門師、欽次朗師の地道な普及活動です。学校、神社、お祭り、美術館・博物館など普及できる機会では、いつも実演、体験指導されています。

 大観衆の「薪能」報告でした。武内

 


学生集会所

段野治雄 3月28日(土曜日) 10:55

2015年3月26日久しぶりに大学訪問。

部室の今昔を探ってみました。

 

1、    初代 「学生集会所」

 今は跡地に「社会科学系アカデミア館」が佇立。

 その1階は生協食堂、2階職員食堂、その上は「放送大学兵庫学習センター」

 

2、    二代 「名は不明」―正門を左にカーブする坂道を上がった突き当り。

 汚い平屋建てで右隣は確か自動車部?その左隣りの床は一部抜け落ちてふすまはボロボロ、寒風自由往来。

 現在は跡地に「国際協力研究科」の建物。

 

 

 

 

 

  3.三代目の部室

六甲台のプール横の階段を上がって運動場に出る少し下の、坂の途中の平地に戦後の大学関係者の官舎があり、それを部室に転用したもの。

 部室としては部屋数も多く最も広かったそうです。写真のプールの向こうに見えるのはフロンティア館、すぐ左が運動場です。

 

 

 

 

4. 四代 「課外活動第三共用施設」

  六甲台グラウンドの西の端にある建物、写真の1階手前の部屋。

 

 

 

 

 

 ※現部室雰囲気は7月の寄稿にも紹介されてます。