(原文はB5判 縦書き3段組)

 

 

 能 謡 を 楽 し む (その一)

 

                       大5 高 田  透

 

 

    (前おき) 子供の頃、それも十一・二才の頃であったが、祖父が晩酌後の慰さみに、私に

小謡教えてくれたものだ。文句は今でも忘れもせぬ、あの時覚えた小謡は “ 緑樹影沈んで ”

の「竹生島」を始めとして「高砂」「鞍馬天狗」「熊野」「玉井」など十曲ばかりだった。

雀百までの諺のとおり、その後も謡と聞けば懐かしく、成人してからも正式に師匠について

見たり、離れて見たりする内にいつの間にやら古稀を迎え、今では祖父の齢を凌ぐに到った。

老妻も永らく謡や仕舞や鼓の稽古をして来たので、家庭内の日常の話題といえば能や謡の噂

で明け暮れする始末、暇さえあれば観能に時を過ごし、同好者も大分できて来た。自分の腕

前は十人並み以下だが、耳や目はどうやら十人並みにはなったかも知れない。

        殊に仕合わせなことには、東京で「凌霜うたい会」の世話役を十年ばかり勤めさして戴い

 たので、その方の動静には比較的親しくなった。今年の春、ふと思いたって、この会の会員

 六・七十名(中には脱会同様の人もあるが)にお願いして「凌霜人謡曲歴調べ」を試みたとこ

 ろ、幸い五十四名の方から回答を得た。

        東京方面の「凌霜うたい会」と並んで関西でも先年「凌霜関西地区謡曲会」が結成され、今

 年の八月に第六回の大会が催され、その盛会振りは想像に余りあるものがある。因みに東京の

 凌霜うたい会は去る十月で第百十八回の月例会を迎えた。ところが余り大声では言えぬが、最

 近ちょっと低調で、やや老衰気味も見受けられる。これは世話役の不徳に因るところもあり、

 内心恥じている。しかし、謡会のあとの懇親会の楽しさはまた格別で、他の会では見られない

 雰囲気がある。これは同じ古典芸能に共通の趣味を持つ者同志の特権といえよう。また同期生

 の集りとも違った懇親振りである。

        さて「凌霜人謡曲歴調べ」も東京方面だけでは片手落ちであることに気が付いたので、関西

 側の幹事役、井口宗敏氏にお願いして関西各位の謡曲キャリアを取纏めて頂いた結果、三十五

 氏の回答が集まった。これらは何れも貴重な資料であるので、わたくしするに忍びず、凌霜誌

 上を拝借して発表させて頂くことにし、併せて筆者の能謠に関する感想などを綴って見たいと

 思い立った次第である。謡曲は六百年の昔から我が国の庶民、武人、将軍に愛好され、明治以

 降は国民大衆の趣味と精神生活の糧となって来た。かかる謡曲がわれわれ凌霜人の趣味の支え

 となって何の不思議があろう。

     さて、これから凌霜人の謡歴調べをご披露するについて、まず、物故者で謡曲愛好家であっ

 た伊藤述史氏と音申吉氏のことを述べさせていただきたいと思う。

 

 (凌霜人謠歴調べ)

  (1)  伊藤述史氏(明四〇卒―昭三五没)

        伊藤氏は人も知る如く外交界ではつとに勇名を馳せ、凌霜人中でも出色の人であったが、その

    方面のことは省略する。氏は英、仏、伊等数ヶ国語に堪能であり、また仏教にも造詣が深かった。

    これらのことと謡曲とは何のかかわりもなさそうであるが、私には何となく因果関係があったよ

    うに思われてならない。

  それは昭和三十年春のある日突然、伊藤氏から電話が掛り、その日以来、しばしば凌霜うたひ

    会に出席された。氏は人一倍記憶力が強固であった。「景清」「鉢木」などは無本でシテを謡わ

    れた。氏の謡の特長は余り節の抑揚に拘泥せず、すらすらとして立板に水を流すが如く、恰か

 経を読むようでもあった。この辺が氏の語学や仏教に何となく縁があるように思えた。笛も「

 之舞」をよく奏した。また興が乗ると立って仕舞をまわれた。

   昭和三十五年の二月頃であったろうか、伊藤氏が食道癌で入院と聞き、音申吉氏と二人で下谷

    の病院を訪れ、メロンを見舞に差出すと氏は非常に喜ばれ、「患部はすっかり切り取ったから、

    もう大丈夫だ」といって居られたが、その後容態は回復に向う様子もなく、四月三日の夜、花に

    叛いて七十四才で他界された。本当に惜しい先輩を失ってしまった。       (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

  

 (原文はB5判 縦書き3段組)

 

 

 

 

能 謡 を 楽 し む (その二)

 

                  

大5 高 田  透

 

 

 

 (前回伊藤述史氏の追記)

   伊藤氏は謡の外、仕舞、笛もやられたが、それらの師匠名を聞き漏らしたことは残念で

 ある。笛については或る日、会場で大きな胡桃の実を二つ手中にして、絶えずつまぐって

 いるので、「それは何ですか」と聞くと「こうして指の運動をさせるのだ。そうしないと、

 笛を吹くとき指の動きが粘って困るのだ」と答えられた。笛の練習にこうした運動法が

 ることを、その時初めて知ったものだ。

 

 (2)  音申吉氏(明四五年卒―昭三七年没)

  音氏については同氏が亡くなった時、本誌一六七号、一六八号にも寄稿しておいたが、氏

 は東京凌霜うたひ会の創始者であった。この会の前身は「ヒマラヤうたひ会」であった、こ

 れは昭和二十四年頃以来継続していたが、昭和二十九年に「凌霜うたひ会」に改名された。

 その当時の情況は音氏が残した左の手記よって明らかである。

       凌霜第六期の伊達、日塔、竹内、音、久々江が観世流の謡を嗜んで居るので、二年程

   前から毎月一回謡会を楽しんだ。ヒマラヤうたい会と称した。追々凌霜同人が参加して

   今では十数人を数えるようになったので、此月から凌霜うたひ会と改めた。

        京浜が開催地である為、自然、観世流を習って居る者が多いが、宝生流の江波戸君が

             熱心に参会されるし、金春流の井上貴与記君が来会される事もある。今は引続き日本毛

   織の白金寮で土曜の半日を楽しみ、会後簡単に盃を交わして歓談する事にして居る。

   会員の夫人方で応援参加される方もあり、大変和やかな催となった。

                           昭和二十九年三月二十日  音 生

 

  この手記の日、すなわち二十九年三月二十日に日毛寮で催された謡会への出席者の記録を

 ると、三田村明、伊達泰次郎、沢木正太郎(一橋出身で元日毛の同僚)、松本幹一郎、久住昌男、

 音申吉、西川清及び筆者夫妻となっており、演し物は嵐山、忠度、千手、隅田川、鞍馬天狗、

 外に囃子、笠之段、熊野となっている。

   会員の殆どは観世流であること、現在に至るも同様であるが、それでも宝生流の江波戸鉄

     郎氏、吉谷吉蔵氏、玉伊辰良氏、後ち山根勇氏、宮保卯吉氏等、また喜多流の松本幹一郎氏、

     久住昌男氏、藤田寿雄氏等の参加も時々あった。

      会場は最初の日毛白金寮から一時、特殊ポンプ(日機装の前身)の階上、渋谷区民会館等を経

    最近はもっぱら出光西大久保寮を拝借して居り、また年に二回位、箱根、熱海、湯河原等の旅館

    や会社寮に一泊掛けで遠出を試み、しばしば浩然の気を養って来た。

     さて、音氏の人となりに就いては、交友の広かった人だけに種々の形容詞や呼び名が用いられ、

    或いは哲人と呼ばれ、先覚者といわれ、或いは事業家と称せられ、また慈父と慕われた。音氏の

    追想録「残声」(昭和三十八年、日本機械計装発行)に載せられた同級、石井光次郎氏の文に、

       音君という人は不思議な人であった。大きな声でしゃべるのでもなく、派手に動き回る

      わけでもなかった。それでいて、誰もの心に、しっかり彼を植えつけていった。徳の人と

      いうのであろう。

 とあるのは、もっともよく故人の性格を表現したものと思う。また石井氏は「音君の謡曲は一種

    特別で、音流とでもいうものであろう」と評された。

  音氏は観世流、清水福太郎氏、橋岡久太郎氏、清水養之助氏に師事した。謡曲を始める前は

    八の名手で、三曲合奏などを好んだとのこと。謡曲を始めてからはこれに心酔して、私の形容に

    よれば教祖的な存在となった。謡に教祖などという名はないが、それが音氏の風貌にもっともよ

    くうつる名称だと私は思った。石井氏のいわれる「音流」と一脈通じるものだ。要するに謡い方

    に一家の見を持ち、自分の主張は何所までも押し通し、他人への批評は辛辣を極めた、その反面、

    非常に愛嬌があり、必ず同好者に親しまれた。

   晩年は声が嗄れて、往々よく聞きとれないこともあった。それでも自分では医者の言を信じ

    健康体だといい、一調などを好んで謡った。昭和三十七年の晩春、四谷内科に突然入院され、

    の後虎の門病院に移ってからは昔日の観なく、日々に痩せ衰え、遂に七月九日未明他界された。

    それを知った時は本当にがっかりしたものだ。

   なお、音氏の面影や逸話は前記「残声」に満載されているので詳しいことは省く。

                   (四〇・一二・一〇)

 

 

 

 

 

 

  

(原文はB5判 縦書き3段組)

 

 

能 謡 を 楽 し む (その三)

 

                      大五 高 田  透

 

 凌霜人謡曲歴調べ (1)

   東京の凌霜うたひ会のメンバーと関西の凌霜謡曲会のメンバーの謡曲キャリーアの調査を思い

 立ち、アンケートを取って見たところ八十九名の方から回答があったので、これを順次掲載させ

 て戴きたいと思う。アンケートの項目は次の通りである。

 

 〇謡曲キャリア調べ

  (1) 謡(仕舞、鼓、大鼓)を始められたとき

  (2) 始められた動機

  (3) 最初の師匠名(流名)

  (4) 現在の師匠名

  (5) 能を舞われましたか(曲名、年月日、舞台名)

  (6) 謡曲、仕舞、はやし、能に関する御感想

 

  関西のメンバー諸氏には大部分の方に面識がないので大体回答のままを項目順に記載すること

 にする。関東の方に関しては時宜により注釈を加えることもあろうと思う。

 

 高井勘太郎氏(明40

  (1) 謡を始めたのは古いことです。

  (2) 動機というほどのものは別にない。

  (3) 最初の師匠は観世流小林憲太郎師、梅田邦久師(共に片山一門)

  (4) 現在の師匠も同様。

  (5) 能は前後十三番程舞った。最近では去る五月(四十年)に和田伝太郎氏のワキで「鉢木」を

   舞った。

  (6) 感想。どれもむつかしくて一向に進歩しない。併し趣味としては私に最適、また健康にも得

   るところが多いと思う。

 

 古井保太郎氏(明40

   ここ数年來やめておりますので失礼いたします。

 

 矢野政氏(明41矢野端氏未亡人)

   謡は健康によいと存じ始めました。現在、観世流清水要之助氏に師事しております。

 

 佐々木貞子氏(明41佐々木義彦氏夫人)

  (1) 小学校五年生の頃、叔母(故観世清廉に師事)から二、三番習いました。

  (2) 謡曲本が読めないので、半紙をとじて平仮名で自分で書いたものでした。

  (3) 師匠は故観世左近。当時まだ清久を名乗っておられた先生に避暑先、鎌倉で御手ほどき願った

     のが初めでございました。爾来二十余年、四十五才で先生御急逝までと絶え勝ちの(明治天皇、

     大正天皇崩御、御諒闇中の二ヶ年、私共が神戸須磨に十年間転居しておりました為)お稽古で

              教えて頂きました曲も廿数番という乏しいものでございますが、下手の横好き、いまだに何に

              もまして謡曲が好きでございます。

      (注)因に佐々木貞子氏の謡は素人離れしており、殊に婦人に似合わず落付きある声調で

                  「井筒」など伺うと観世左近の再現かと思われる。

 

 鈴木寛一氏(明41

  (1) 謡を始めたのは大正六七年頃か。

  (2) 健康(発声)と漢文、作詩に一層の趣味と研究を深める為。謡曲に唐詩の多数の引用に驚く。

  (3) 師匠。観世流。古い昔、有楽町の清水(福太郎)先生。老生が始めて半年後故音(申吉)君が

     入門す。

  (5)無し。(息子譲一。神戸大学12には少し学ばせたが)

  (6)感想。凡て永久保存すべき古典、宮中の音楽の源泉より起りしもの。各位、源流を探ねて尚一

   層御研究を希う。蓼瀕八十二病痩。

 (注)氏は過去二ヶ年半病臥中とある。

 

 田中載吉氏(明42

  (2)友人に勧められて始めた。

  (3)観世流小川秀太郎氏(広島)

  (4)観世流永木基之氏(広島)

  (5)大正十年秋、台湾神社にて敦盛のワキを勤めたことあり。

  (6)謡曲を稽古したことは私の一生にとり非常に幸福をもたらしました。現在の如く老境に入って

   は同好の者が毎月一、二回会合して謡うことが唯一の楽しみです。

 

 浅野充知恵氏(明43浅野哲夫氏未亡人)

  (1) 鼓を始めたのは約四十年前

  (2) 長唄に熱中していました時、喜多流の或る夫人に無理矢理に鼓をすすめられ和歌山三和銀行支

     店長時代に幸流の高木敏郎師(大阪)に師事し、後、幸祥光師に入門、時折り上京してお稽古

     願いました。唯今お稽古は続けておりませんが、舞出演の時だけ一、二回位いおさらえして頂

             きます。

  (6)私は囃子(鼓)を主に長年この道を楽しんで参りましたが、やはり謡曲が根本 ですから、好

   いお謡で無我の境に入り、心ゆく許りに鼓が打てました時が一番幸福を感じます。(観世銕之

   亟先生のお相手の時の感想です。愚見お笑い下さいませ。)

 

 江波戸鉄太郎氏(明43

  (1)明糖社長(故人)にすすめられ、いやいや始めた。

  (3)最初の師匠。宝生流、斎藤篤(故人)

  (4)現在の師匠。野村蘭作(宝生)

  (5)演能。山姥(昭3763水道橋)舟弁慶(昭39328水道橋)

  (6)やればやる程むづかしい。骨が折れるが面白い。

 

 近藤得三氏(明43

  (1) 大正元年

  (2) 娯楽設備の不十分な外地に居住して居ましたので、先輩の勧誘により始めました。

  (3) 時々内地から来られる色々の先生に習いましたが、終戦帰国の後、緑泉会津喜美子師に就いて

    最初からやりなおし其後大阪で大槻十三師一門の田村勇師に就きました。現在は師匠に就いて

    はおりません。

  (6)只だ好きでやって居りますが健康上にも良いと思います。

 

 橋本やな子師(43橋本成子郎氏未亡人)

  (1) 昭和十二年に始め、その後一時中断して居りましたが最近また始めました。

  (2) 健康の為めと友人のすすめにより。

  (3) 戸田誠二先生(梅若)

  (4) 清水要之助先生(観世流)

 

 (附記)

  この凌霜人謡曲歴調べにまだ御投稿下されていない方からのアンケートを歓迎いたします。前掲

 の項目順にご記入の上左記へ御送付下さい。

    東京都世田谷区経堂町XXX  高田 透

 

 

 

 

 

 

 

(原文はB5判 縦書き3段組)

 

         能 謡 を 楽 し む (その四)

                        大五 高 田  透

 

 凌霜人謡曲歴調べ (2)

  竹内鎨之助(明45

  (1) 謡を始めたのは昭和二十二年。

  (2) 故音申吉君の再三の勧誘に依る。

  (3) 最初の師匠観世流石川志朗先生

  (4) 昭和三十七年病気の為、謡の稽古を止めました。

  (6) 能は歴史、伝説、神事、仏事などを、ドラマに仕立てたものと思いますが、歌舞伎、浄瑠璃

     などよりも一層の深みと古典味を感じます。

 

 竹内 淑子夫人

  (1)謡、仕舞を始めたのは昭和二十二年。

  (2)主人に勧められて。

  (3)観世流石川志朗先生。

  (4)引つづき石川志朗先生。

  (6)謡曲も仕舞もとても奥深く、御稽古をすればする程自分の力量に不安を感じ、人様の前で増々

    臆病になって参りました。でも何よりの楽しみで、是からもつづけてお稽古致し度いと存じて

             居ります。

 

 伊達泰次郎氏(明45

      お稽古をやめて二十余年、諸謡会に遠ざかる事十余年、今更謡歴申述べがたく遠慮します、

        この際従来の御厚配敬謝します。

 

 日塔 治郎氏(明45

  (1)昭和九年四月、満州奉天にて始めた。

  (2)以前からやりたいとは思っておったが機会が無かった、計らずも前記の年か ら、奉天である

   会社を主宰することになって、時間に多少の余裕が出来たので始めた。

  (3)五十嵐吉太郎師(観世流、先年物故)

  (4)浅見重弘(観世流)

  (5)発声は内臓の健康に宜しく、特に年を取ってからの消閑、保健によろしい。

 

 高田善次郎氏(大2

  (1) 大正五年、但、途中転職の為断続多々

  (2) MBK長崎支店在勤中、支店長夫妻から半ば強制的に。

  (3) 故松本要一氏(観世)後、大正十二年関東大震災後梅若の内弟子連中入替り立替り台北へ避難

     旁々来遊、最も身の入ったお稽古が出来ました。故梅若竜雄氏、鈴木一雄氏、鵜沢勇三氏、大

              塚信太郎氏外、就中鵜沢氏。

  (4) 現在の師匠なし(専らレコード)。

  (5) 生涯の伴侶として離れることはできません。

 

 吉谷 吉蔵氏(大2

  (1) 謡は明治四十三年頃、笛は昭和二十九年頃。

  (2) 友人に勧められ、東北弁是正の為め謡を始めた。謡が上達せぬので笛でもやろうかという物好

     きから笛を始めた。

  (3) 宝生流、和田栄吉師(神戸の同期生和田重君の父君、今は故人)。

   笛は一噌流、一噌幸政師(現職)。

  (4) 現在師匠なし、但し笛は疑問があれば今でも通信教授を受ける。

  (6) 此頃は隠居の身分につき、ラヂオとテレビの放送を聴いたり見たりする程度。但し興が乗れば

     テープ二台で笛を吹き拍子板を打ち、謡をやって一人囃子をやる。

 

 三木 鶴子(大2三木六郎氏夫人)

  (1) 昭和十年ころ。郷里は加賀、宝生の盛んな土地柄、何の集りでも先づ謡曲によって始められま

    す。

  (3)観世流、亡山田軍太郎氏、陸軍少将、素人にて趣味で指導なされた。小林義雄 師 橋岡久太

    郎氏門の飯山嘉俊師.

  (4)飯山嘉俊師、現在中休み中なるも、いづれ御指導仰ぎ度・・・。

  (5)仕舞は戦後玉川能楽堂にて初舞台。

  (6)観賞を楽しみに致して居ります。

 

 野坂喜代志氏(大3

  (1) 昭和三十年。

  (2) 友人に誘われて

  (3) 観世元昭師

 

 野坂ひさ子氏(同上夫人)

  (1) 謡、昭和三十一年。仕舞、三十五年。

  (2) 主人に誘われて始めました。

  (3) 観世元昭氏。

 

 田伏  修氏(大3

  (1) 神戸在学の頃から。

  (2) 父、兄、姉等に趣味があったから。

 

 臼井 経倫氏(大4

  (1) 謡を始めたのは昭和十九年中頃より、尤も終戦後の二五年迄は中止。

  (2) 師匠友人よりの強き慫による。

  (3) 梅若康之氏

  (4) 同上

  (6)私には余りふさわしくない趣味。見聞きするのも素養足らず、不勉強の為、余り興味を覚えま

    せん。

 

 中村新三郎氏(大4

  (1) 昭和三十年十月、小原章子さんに謡を習い初む。

  (2) 人に誘われて。

  (3) 小原章子師、三十四年夏頃より浜野金峰師に就いて習ったが、三十七年七月以後中絶、今日に

              至る。

  (6) 謡曲に対し一時時高熱にうかされたが其後冷却、現在では興味をなくしています。

 

 中村 道子氏(同上夫人)

  (1) 若い頃父に少々習いました。

  (2) 友人に誘われて

  (3) 小原章子先生に七年習いました。

  (4) 現在高橋正次師に就いております。(四年)

  (6) だんだんむづかしくなって参りましたが、文章の巧さに感歓されます。

 

 

 

 

 

 

 

(原文はB5判 縦書き3段組)

 

         能 謡 を 楽 し む (その五)

                         大五 高 田  透

 

 凌霜人謡曲歴調べ (3)

    西川 清氏(大正5

  (1) 謡・大正十三年から

   大鼓・昭和十三年。小鼓・昭和二十二年

  (3)師匠名 謡・野村史郎氏、のち清水要之助氏(観世流)

       大鼓・安福春雄氏(高安流)

       小鼓・北村一郎氏(大倉流)

 

 松川武一氏(大正5

  (1) 謡、大正六年、謡曲愛好の友人に勧められて始めた。

  (3)先代観世鉄之丞師に師事すること数年

 

 松川光江夫人

  (1) 昭和十五年

  (2) 戦前二男を失った時、同好者に勧められて。

  (3) 観世流小沢良輔門下相沢康子師

  (4) 現在は清水要之助師

  

 藤井喜代治氏(大5

  (1) 神戸の寄宿舎にいた頃上田君、石橋君等同志五、六名と隣に住んでおられた中川静教授から

    田村、竹生島等の手ほどき(観世)を初めてしてもらった。

  (2) 大正末期芝川商店に在職の頃、同業の中川卯之助(淡路千景さんの父君)、得意先の柴田武

    治、芝川と最も関係の深かった日毛の音申吉の諸氏(今は何れも故人となった)がコンビで

             隔月位に橋岡舞台で能を演じたもので(音氏は地方)それを時々見に行かされたものですが、

             昭和三年同業土井氏(梅若新太郎後援会長?)から勧められて同志五、六名が先生に芝川へ

             来てもらって始めた。

  (3) 梅若新太郎師について約十年間に百番程のものを終えてそろそろ地拍子を始める段階に入っ

    たが、昭和十三年非常時色濃厚となるに及んで総てを打ち切った。

  (4) 爾来二十年間謡曲とは全く縁がなかったが(尤も戦災で謡本全部焼失した関係もあって)先

     年正五会が箱根で催された際、上田水足君と久し振りに謡って中川教授の頃を偲んだのが奇

     縁となって謡曲を始めることになったが、特に師匠にはつかず。

   (6)謡曲についてはやればやる程むつかしいと思いますが、その他についてはまだ感想を述べる

              だけの知識を有せず。

 

 三田三郎氏(大5

  (1) 大正十二年在台当時満二ヶ年位、その後中断、昭和三十九年再始

  (2) 三井物産在職時先輩同好者の勧誘が動機

  (3) 梅若流(観世)戸田勇三、大塚信太郎師

  (4) 現在師匠なし。凌霜うたひ会を通して研鑽中。

 

 中川松治郎氏(大5

  (1) 昭和十五年頃始めた。

  (2) 斯道の先輩に導かれて。

  (3) 木原康次師(観世流)

  (4) 終戦後全く中止

 

 土岐茂子氏(大5土岐政蔵氏未亡人)

  (1) 謡―昭和七年三月。 仕舞―昭和二十年三月。 鼓―昭和十六年三月。

  (2) もと和歌山高商校長岡本一郎先生夫人のすすめにより。

  (3) 小林憲太郎師(観世流)

  (4) 小林憲太郎師

 

 高田 透氏(大5

  (1) 謡―明治三十八年十一才の頃、祖父が晩酌後の慰みに私に小謡を教えた。竹生島、高砂、

    熊野等十曲ばかり無本で習った。

  (2) 神戸高商入学前は尾道市で約三年喜多流や観世を稽古し、卒業後大阪で観世大西派の師匠に

     就いたが、余り実を入れてやらなかった、先生の名も忘れた。

  (3) 本気で稽古したのは青島三井物産時代(大正十二年―昭和三年、足掛け六年)梅若実(当時

    六郎)の内弟子出身の黒川正六氏に就いて習った。  

 (4) 昭和三年東京に来てからは特定の師匠に就かず専ら観世、梅若の能や謡会を暇にまかせて見

    学してまわり、大いに得るところがあった。

  (5) 十三才の頃、尾道で船弁慶の子方に出たのが初めの終わり。能楽書を臘るのは好きだが能を

    やりたいとは思わぬ。

  (6) 能は謡曲、仕舞、囃子を底辺とするピラミッドのようなもの、そのリズム組織は邦楽にも類

    例がなく、世界に誇り得るものと思う。「地拍子五指法」という拍子法を考案した。

 

 高田尚子(高田透氏夫人)

  (1) 謡は昭和十五年に始め、二年余りで師匠の応召や疎開で停止、二十三年再開して十二、三年

    間続けました。仕舞は三十年から、小鼓は二十五年から、大鼓は三十六年から、何れも断続

    的に。

  (2) 謡は従姉にすすめられて、小鼓は習いたくて、仕舞は友達の勧めにより、大鼓は舞囃子を舞

    うのに必要を感じて。

  (3) (4)謡―瀬戸祥孝師(観世流)。小鼓―丸岡貞子氏。後、近藤全宏師(幸流)。仕舞―梅若雅

    俊師。大鼓―安福春雄師(高安流)

  (5)昭和三十二年菊慈童(水道橋能楽堂)、三十四年三井寺(喜多能楽堂)、三十七年袴能清経

    ツレ(染井)、三十八年松風ツレ(梅若舞台)、三十九年蟬丸シテ(梅若能楽院)

  (6)能を舞うのは本当にむづかしいと思いました。しかし苦労して稽古し、無事にすんだ後の楽

   しさは得難いものです。

 

 

 

 

 

 

  

(原文はB5判 縦書き3段組)

 

      能 謡 を 楽 し む (その六)

                         大5 高 田  透

 

 凌霜人謡曲歴調べ (4)

   要目(1)謡(仕舞・鼓・大鼓)を始めたとき。

    (2)始めた動機

    (3)最初の師匠名(流名)

    (4)現在の師匠名(流名)

    (5)能を舞った曲名、年月日、舞台名

    (6)謡曲、仕舞、はやし、能に関する感想

 

 伊藤則忠氏(大6

  (1) 明治四十五年、伯父三木百太郎に観世流を習う。大正四年頃在学中に観世流青飄会創設、植田

    師匠を学生会館に招き観世流稽古を始む。

  (2) 一族に同趣味者多く、伯父三木百太郎方より通学せしめため稽古を始む。

  (3) 観世流三木百太郎

  (4) 昭和二十年戦災後師匠なし(以前は観世流橋岡派中道先生に師事)

  (5) (記録、写真等焼失して不明)

    昭和四、五年頃、袴能、清経(大坂大紙倶楽部)、盛久(同左)

  (6)心身の鍛錬と文学の素養を高める。

 

 京藤甚五郎氏(大6

  (2)謡、同期というほどのものなし。

  (3)梅若春雄(大正十年頃)梅若流。

  (4)二、三年前まで武田小兵衛(観世流)

  (5)良いものであるの一言に帰します。

  

 吉川治一郎氏(大6

  (1) 謡、大正八、九年頃

  (2) 会社の友人の勧誘

  (3) 宝生流を団体教授で一年程やっただけ

  (4) 観世流竹谷文一師

 

 青木又雄氏(大7

  (1) 謡(大正四年秋頃より)、仕舞(昭和十五年より十七年まで一年半位で中止)

  (2) 神戸高商在学中、下宿したのが観世流小島先生の宅でムリヤリに教えられた。卒業後大正八年

    からは面白くなって遂に五十年の病付きとなる。

  (3) 小島甚三郎氏(一年)、囃喉権九郎師(梅若)

  (4) 最近十年は師匠なし、最後は大槻門の島米次郎師

  (6)謡曲のみに徹して自らの楽しみとしたい。その以外は能をなるべく多く見て観賞と同時に謡曲

    の真奥を知りたい。

 

 小西幸之助氏(大7

  (1) 大正十二年震災後、梅若家元が大阪にきてから。仕舞、小鼓は途中で中止、現在素謡のみ。

  (2) 梅若流(当時)大阪の後援会会長長谷川義郎氏(死亡)の勧めにより。

  (3) 小川健太郎、平井宗一郎両師各月交替

  (4) 梅若雅俊氏、但し此処二ヶ年休止。

     小山健太郎氏  〃   〃

  (6)年に二、三度は能を見たいと思うし、素謡も謠って見たいと思います。

 

 松本幹一郎氏(大7

  (1) 謡、昭和二十六年一月

  (2) 父方祖父宝生流、母方祖父喜多流、父喜多流の関係がありましたところに辛島浅彦、山中清三郎

     御両氏からの御すすめがありました。

  (3) 喜多実先生

  (4)喜多実先生

  (5)謡だけにしたいと考えて居ます。

 

 西村二郎氏(大7

  (1)五、六才(幼稚園時代)より十一、二才位迄謡曲を、其の間多少仕舞を習いましたが皆忘れま

   した。

  (2)親父の強要により。

  (3)実父(北川米太郎)観世流(京)

  (4)無し、元昭氏に手直しを受けましたが、(昨年)半歳で棒を折りました。

  (5)京都の片山の舞台で隅田川他二、三の素謡の子役をやったことがあります。

  (6)歳と共に古典芸能に対する心酔の度を深めますし、旁々引退後の絶好の楽しみと思います。

   但し苦労するのは好みません。

 

 和田伝太郎氏(大7

  (1) 謡・・・・・・大正九年

    ワキ・・・・昭和二十五年

  (2) 友人からすすめられて。

  (3) ワキ高安流 植見源三郎師

  (4) 観世流小林憲太郎師。 ワキ副王茂十郎師

  (5) ワキとして出演蟬丸、弱法師、船弁慶、熊野、藤戸、小鍛冶、鉄輪、鉢木、羽衣等十五番、

     阪大槻舞台、大阪能楽協会、和歌山等。

  (6) 奥深く、やればやる程六ケ敷いものと思われます。

 

 三田村明氏(大7

   「拝啓 新緑の候益々御壮栄の段大慶に存じ上げます。先般凌霜うたひ会に関し御懇書頂き

        乍ら御返差し上げず、非礼の段お許し願います。実は小生事数年前より視力を損傷し、種々

  治療に尽くしましたがいまだ恢復致しませんので、爾来専ら引籠り中にて折角の度々の案内に

  も出席致しかね、誠に申訳なく存じて居ります。御来示のアンケートに対しても御返事申上げ

  る程の謡歴もありませんので勝手乍ら失礼させて頂きます。ただ大正十一年頃より五、六年間

  同好の友人と観世流謡を練習したにすぎません。

  音氏に代わって大兄色々御尽力の御様子此の上共に御発展の程を蔭乍ら祈り上げます。草々」

 

(附記)本稿に関する御連絡は左記へ 

     東京都世田谷区経堂町XXX   高 田  透

 

 

 

 

 

 

 

(原文はB5判 縦書き3段組)

 

          能 謡 を 楽 し む (その七)

                         大五 西 村  二 郎

 

 凌霜人謡曲歴調べ (5)

   要目(1)謡(仕舞・鼓・大鼓)を始めた時。

    (2)始めた動機

    (3)最初の師匠名(流名)

    (4)現在の師匠名(流名)

    (5)能を舞った曲名、年月日、舞台名

    (6)謡曲、仕舞、はやし、能に関する感想

 

 芳賀津二彦氏(大8

  (1) 昭和二十六年頃。

    数年前より健康上、発声を禁じられたので、現在はやっておりません。

  (2) 能に心を引かれたから。

  (3) 坂井音二郎先生(観世流)

 

 栗岡治作氏(大十)

  (1) 大正八年

  (2) 学校に同級生謡曲部発足

  (3) 喜多流野添勝己師

  (4) 梅若六郎師(観世流)昭和二年以来現在に到る。

  (5) 俊寛(昭三二、大槻)三井寺(昭三四、大槻)山姥(昭三六、大槻)景清(昭三九、東京)

     砧(昭四〇、大槻)

  (6) 謡ひ、舞ふ、実に楽しい。

     まだまだ入り口に立った感じ、初心のつもりでこれからが本当の稽古らしい稽古をしたい

     と張り切っている。前途無限がうれしい。

 

 酒井利貞氏(大十)

  (1) 謡大正十一年。仕舞昭和二十三年。

  (2) 父が好きで、幼年の頃より耳にしていたから。

  (3) 佐野光太郎師(観世流)

  (4) 仝師令息佐野善之師(観世流)

  (5) 能はまだ演じたことなし。

  (6) 謡曲を習って居るお蔭で持病の胃病もなくなり、現在まで健康で一人でも楽しめるので喜ん

              で います。

 田中六郎氏(大十)

  (1) 二十歳頃父から素謡の手ほどきを受けた。

  (2) 父に勧められた。

  (3) 大槻清韻社里井順次郎師(観世流)

  (4) 同社吉村直之師、島米次郎氏のOBとして大会に出演する程度。

  (6) 各曲目を通じ、静と動の巧妙なる組合せや、其の調和の面白さに心を惹かれる。

 

 由良基夫氏(大十)

  (1) 昭和二十五年。

  (2) 社内に謡の会が出来たので。

  (3) 林鶴川師(観世流)

  (4) 京都井上嘉久師門の岡井師(観世流)

  (6)下手ながら毎日少時間づつ、続けたし(健康のため)

 

 山口貞一氏(大十)

  (1)謡、小学四、五年生頃  仕舞、二十二、三才頃

  (2)謡、父の勧奨により   仕舞、自発的に。

  (3)謡、森崎清次師(福王流)仕舞、小島甚三郎師(観世流)

  (4)故嶋沢啓次(観世流)

  (5)観世会館に於て清経(昭三〇)葵上(昭三二)半蔀(昭三四)

 

 石井源一氏(大十一)

  (1) 大正七年予科生のとき。

  (4) 木内師(観世流)

 

 井口宗敏氏(大十一)

  (1) 大正十年頃

  (2) 友人若林利造君の勧めによる。

  (3) 若林利造君(観世流―京都井上嘉輔師)

  (4) 勝部全一師(観世流京都井上派)

  (5) ありません。

  (6) 地謡はいつも地頭に合わせることに汲々とし、地頭以外の人は常に低声に遠慮勝である様に

     思われます。(くろうとの場合でも同門の人許りの場合は別ですが)これを洋楽の交響楽の

     様に、而も謡はぬコンダクターなしに地頭以外の人も、力一杯謡って尚且つ、うまく合う様

              地謡の謡い方の研究が必要ではないかと思いますが如何でしょうか。

 

 若林利造氏(大十一)

  (1) 明治三十九年、仕舞や鼓は大正、昭和になってから。

  (2) 父にすすめられて

  (3) 船越師

  (4) 無し。最後の先生山口幸徳師

  (9)終戦後はやめていますがたまにきかせてほしいと思います。

 

 田中梅作氏(大十一)

  (1) 大正末期

  (3)故清水福太郎師

  (4)清水要之助師

  (6)腰椎滑り症のため入院、其の後自宅養生でうたひもしばらくお休みの外なし。

    

   筆者註。最近は病気も全快、元気にうたっておられます。 為念

 

 筆者註、昨年暮高田透氏が忽然と他界せられたあと、幹事を仰せ付かったので早速続稿すべきだ

    ったのですが遅れて申訳ありません。幸い材料は高田氏が全部残して下さったので、これからは

    精を出して投稿致します。